堪忍ならぬ、満州事変勃発

満州事変は侵略ではない。


 日露戦争によって数万の日本人の血が流れ、満州はロシアの侵略から守られました。その血と引き換えに日本は満州鉄道などの権益を得ることができました。しかも日本はこの地に産業をおこして繁栄のもとを築き、関東軍によって治安を維持したため、支那大陸の内乱の中で平和な別天地として人口は増加し、繁栄しました。しかし、やがて支那人は自分たちはロシアの侵略に対し、一滴に血も流さなかったにも関わらず、満州の地で排日侮日運動を展開し、条約違反、国際法違反を繰り返し、日本の権益を否定しはじめ、当時日本国民であった朝鮮人を迫害し、中村大尉を惨殺するという暴挙に至りました。

 昭和3年(1928年)10月20日、石原莞爾は大連に到着しました。関東軍作戦主任参謀として満州に赴任したのです。石原莞爾は赴任して間もなく満蒙問題解決に向けて「作戦」を考えていました。昭和4年には「北満現地戦術」を書いて張学良軍閥に対しての武力発動やソ連の満蒙への南下に対処する研究を行っていました。その後も「作戦」に不可欠な組織、人物との打ち合わせを余念なく実行。そして昭和6年、万宝山事件、中村大尉殺害事件により沸点に達したとき、石原の「作戦」は発動されました。

 9月1日、石原莞爾は本庄関東軍司令官に「作戦」を説明します。本庄関東軍司令官は「作戦」を黙認。9月15日、奉天において歩兵第二十九連隊、関東憲兵奉天分隊奉天特務機関の夜間出動準備の演習を視察します。「作戦」の予行演習と同時に繰り返し演習して張学良軍を油断させる目的があります。
 ところが、内地の参謀本部から小磯国昭中将と建川美次少将が来るという。石原らは関東軍の不穏な動きを察知して「作戦」止めに来ると判断し、一旦作戦中止を決定。しかし、16日には再び決行を決定。決行日は18日。

 9月18日、止め役の建川美次少将が奉天へ来ると板垣征四郎大佐が出迎え、料亭「菊文」に連れ込みました。綺麗どころの芸者をズラリ揃え、たちまち酒宴が始まりました。「閣下、長旅でお疲れでしょう。仕事の用件は明日ゆっくり伺いますから、今日は思いっきり飲んでくつろいでください。」と言って酒をすすめ、建川少将が酔いつぶれたのを見届けた板垣大佐は、女将を呼んで「あとは頼む」と言い残して引きあげました。

 午後10時過ぎ、奉天に爆破音が轟き、続いて大砲や重砲や銃撃の音が轟きわたりました。止め役の建川美次少将は酔眼朦朧(すいがんもうろう)とした眼で悠然と酒を飲み続け、やがて布団にもぐり込んで寝てしまいました。

 関東軍満州全域あわせても1万人強。対する張学良軍は26万5000であり、奉天だけでも5万人の大軍で、さらに住民から絞り上げた軍閥予算の80%を軍事費にあてて近代的装備を保有していました。石原莞爾は東京から密かに24センチ重砲を奉天に取り寄せており、柳条湖爆破を皮切りに張学良軍の北大営に向けてぶっ放しました。張学良軍は夜間は武器を武器庫にしまうことも計算していました。これにより張学良軍はほうほうの態で逃げ出しました。

 関東軍の夜間攻撃によって張学良軍は520の遺棄死体を残して逃避し、関東軍は飛行機60機、戦車12両を捕獲しました。関東軍の戦死は2名、負傷者は25名でした。

 柳条湖の鉄道爆破は関東軍の河本末守中尉ほか、部下数名で実行されたというのは、河本中尉の所属する川島中隊の2,3の将校からの聞き取りや関東軍参謀花谷正の手記によるものです。しかし、石原莞爾は「永遠の謎」と言うだけでそれ以上は語らなかったといいます。



参考文献
 PHP文庫「石原莞爾」楠木誠一郎(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 ちくま文庫「甘粕大尉」角田房子(著)
添付画像
 柳条湖の鉄道爆破現場を調査しているところ(PD)

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惨殺された中村大尉 〜 満州事変への道

なぜ満州事変が起こったのか。戦後語られない真実。


 昭和6年(1931年)5月、日本軍参謀本部は対ソ戦争に備え、興安(こうあん)嶺方面の兵要地誌調査のため、中村震太郎大尉を派遣しました。中村大尉はチチハル南方で旅館を営む騎兵の井杉延太郎予備役曹長、ロシア人ローコフ、蒙古人の包某の4人で偵察行を続けていました。6月下旬にはトウ南(チチハルの南)に姿を現す予定でしたが、7月に入っても姿を見せません。そこで関東軍参謀の片倉衷(かたくら ただし)が潜行捜査にはいりました。

 中村大尉一行は6月25日に張学良軍に逮捕、拘禁され、拷問にかけられ、山中で銃殺され、その上、石油をかけられて焼かれたことがわかりました。奉天の林総領事は遼寧奉天)省長、張学良参謀長に詰問しましたが、シラをきったため、実力調査を本国へ申請しました。ところが幣原外相は相変わらずの軟弱で、あくまで外交交渉でカタをつけようとしました。

 事件の真相が日本国民に知らされたのは8月に入ってからでした。マスコミに発表されると日本国民は激昂し、満州問題に解決に向けて世論は盛り上がりました。

 後に満州問題を調査したリットン調査団報告
「中村事件は他の如何なる事件よりも一層日本人を憤慨せしめ、遂には満州国に関する日支懸案解決のため実力行使を可とする激論を聞くに至」

 8月下旬の満州は事実上交戦直前の状態となり片倉参謀にいわせると「山雨至らんとして風楼に満つる」という状態でした。

 朝日新聞社説 昭和6年8月18日
「(前略)今回我が現役将校外1名に対する未曾有の暴虐きわまる惨殺事件が満州支那官憲の手によってなされ、その驚くべき事実が暴露するにいたったのは、支那側の日本に対するけう慢(あなどるという意味)の昂じた結果であり、日本人を侮蔑し切った行動の発展的帰着的一個の新確証であるのだ。(中略)今回の出来事は、平和の日に土賊鎮圧の任務を有しつつ同地方の開こんに当たっている鄒作華部下の正規兵によって行われたもので、日本側は旅行券の所持はもちろん条約上からいっても旅行の上に何ら手落ちはなかったのである。然るに不法にも捕縛銃殺、所持品全部を略奪した上、罪責をおほふため、死体を焼くに至り、土賊といえども敢えてせざる残虐をほしいままにしたのである。(中略) 支那側に一点の容赦すべきところは無い。わが当局が断固として支那側暴虐の罪をたださんこと、これ吾人衷心(ちゅうしん)よりの心である」

 度重なる排日侮日、条約違反、国際法違反、万宝山での朝鮮人迫害などが積もり積もって、とうとう中村大尉殺害事件によって沸点に達しました。

 8月3日、東京新橋の湖月で陸軍首脳部が会食を行いました。満蒙問題について話し合いが行われました。しかし、会議は揺れに揺れてまとまりません。この席上に関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐が出席していました。そして板垣大佐は朝鮮軍の神田参謀に耳打ちしました。

「今年の10月にはやる」

 関東軍参謀の石原莞爾の描いた満蒙問題を一気に解決する計画は10月を待たずに実行されることになります。それには朝鮮軍に応援を頼む必要があり、朝鮮軍にしても間島地方の抗日運動を抑え、朝鮮半島に影響がないようにしなければなりません。

 張学良側が中村大尉殺害を全面的に認めたのは9月18日の午後3時のことでした。しかし、時既に遅く、この夜、柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破されます。満州事変の勃発です。



参考文献
 PHP文庫「石原莞爾」楠木誠一郎(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)
 ちくま文庫「甘粕大尉」角田房子(著)

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 中村震太郎(左)・井杉延太郎(右)(PD)

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迫害された朝鮮人 〜 満州事変への道

満州事変の真実。朝鮮人が迫害されたことも大きな要因だった。


 吉林省延辺朝鮮族自治州満州帝国時代には間島(かんとう)省といい、この名称は朝鮮語からの音訳でした。李朝末期には朝鮮北部で干ばつなどの自然災害と大飢饉が発生し、多くの朝鮮難民がこの地に移住しました。その後、朝鮮人はますます増え、昭和5年には60万人に達していました。ほとんどは貧農層で漢人地主の小作人となりました。

 昭和6年(1931年)2月、支那の国民党会議は朝鮮人の満蒙移住厳禁を決議し、「鮮人駆逐令」によって朝鮮人満州から追放にかかりました。行き場を失った朝鮮人農民のうち43家族、200名あまりは長春の西北20キロの万宝山(まんぽうざん)に入植しようとしました。朝鮮人農民は感慨水路をつくったところ、それが借りていない支那人の所有地を横切っていたため、両者の間に紛争が起こりました。支那人は警察に訴え、朝鮮人の指導者が逮捕されました。朝鮮人側は日本領事館に応援を求め、両者にらみ合いの状態となりました。

 7月1日から支那人農民数百名が水路を破壊し始め、翌2日には日本の領事館警察と衝突し、発砲する騒ぎとなりました。朝鮮半島の新聞は支那不法行為として大々的に報道したため、朝鮮半島各地で排華運動が起こりました。

 大阪朝日新聞付録「朝鮮朝日」南鮮版 昭和6年7月4日付
「万宝山事件で 仁川の朝鮮人憤激し 支那町は刻々に危険 警察青年団も警戒す」
「【仁川】万宝山事件について憤慨した仁川朝鮮人支那人襲撃はその後各所に頻発し、支那街では異常の緊張を見せ、支那人の避難者が続々と集まっている。領事館でも極力収容せんとしているが連絡が取れぬところがある模様である」

 7月5日付同紙
「衝突、破壊、脅迫、傷人、市内の各所に頻発す 支那人街休業の姿 京城(ソウル)の鮮支人衝突事件」
「【京城】(略)朝鮮人およそ20名が支那人を殴打負傷せしめ、さらに同時刻同所付近の支那商店を襲い、窓ガラスを破壊。9時40分ごろいは府内義州通りにおいても支那人1名を殴打負傷させ10時には和泉町では朝鮮人およそ60名が支那人を襲い同様殴打負傷せしめ同20分府内支那人街西小門技芸学校前で朝鮮人約500、支那人凡そ200名が衝突し、各1名宛の重傷者を出し・・・」

「全市に警官隊配置 支那人続々避難す 京城ますます騒然」
「仁川も形勢益々不穏化す。警官隊との小競り合いも始まり支那人の野菜市場も襲わる」

 朝鮮半島のこの暴動は7月9日までに支那人109人が殺害され、生死不明が63人、負傷者160人に達しました。支那側はこの暴動を日本官憲の陰謀だと非難し、排日を更にあおりました。奉天総領事の林領事が張学良、重光公使が国民政府の王廷外交部長と数度の折衝が行われましたが、難航するばかりでした。そうしたところ中村大尉殺害事件が発覚し、日本の世論は沸騰し、関東軍板垣征四郎石原莞爾が行動を起こすことになります。



参考文献
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 2009.9歴史読本「フォトドキュメント 満州事変」戸部良一
 PHP文庫「石原莞爾」楠木誠一郎(著)
 ちくま文庫「甘粕大尉」角田房子(著)
 SAPIO 2010.5.26「朝日新聞<朝鮮版>の研究」水間政憲

添付画像
 平壌支那人排斥暴動(PD)

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満州事変への道

満州事変、満州建国は満蒙問題の帰結。15年戦争のはじまりというのは嘘。


 昭和6年(1931年)9月18日の柳条湖事件に端を発した満州事変はあたかも日本の侵略がここから始まったように言われ、15年戦争の開始というプロパガンダがまかり通っていますが、全くのデタラメです。満州事変、そして満州建国は満蒙動乱の一つの着地点です。

 昭和3年、満州軍閥張作霖が爆死すると、息子の張学良がその跡を継ぎます。彼は国権回復運動につとめ激しい排日運動を展開し、日本の満鉄に対して二本の並行線を完成させました。このことは条約違反ですが日本の言論空間は隠しています。武装警官が日系の工場を襲って閉鎖を命じ、設備を破壊したり、鉱山の採掘を禁止して坑道を壊したり、日本人への土地貸与を禁止するなど60に及ぶ法令を発しました。このほか、森林伐採県、鉱山採掘権の否認、関東軍の撤兵要求、満鉄の摂取なあど運動はエスカレートしていきました。
 これに対して日本の幣原外交は「対支不干渉」が柱となっており有効な外交政策が打てず「軟弱外交」と言われていました。昭和5年におきた間島の暴動では日本人、朝鮮人が襲撃を受けたにも関わらず、幣原外交は警察官増強は日支対立を深めるとの理由から応援警官を引き揚げさせるなどして在満日本人から激しい抗議が起こっています。

 奉天では数万の張学良軍に対して関東軍はわずか2000人程度であり、万一の場合は兵はもちろん日本人居留民も一気にやられてしまうような環境下で、張学良軍の飛行機がこれ見よがしに日本軍兵営の上空を低空で示威飛行し、しきりに挑発していました。

ラルフ・タウンゼント(1931年上海副領事)「暗黒大陸中国」より
「(張学良は)日本との条約を勝ってに破棄しだした。日本は、いわゆる軟弱外交と非難された男爵幣原が外務大臣であった。幣原は『中国政府との交渉は寛容と忍耐が求められている』と発言している。
 この間、中国人は何をしていたか。例によって反日運動を盛り上げるネタにしたのである。そこで『軟弱幣原外交は全く通じない中国人の暴虐ぶりは減るどころか激増しているではないか』と大日本帝国陸海軍は噛み付いた。何も今に始まったことではない。いずこの国も中国人には恩を仇で返されてきたのである」

 日支懸案
  昭和2年 31件
  昭和3年 37件
  昭和4年 77年
  昭和5年 95件

 軟弱外交の結果、支那人の侮日行為、鉄道妨害、日支官憲衝突事件など増加の一途をたどっていきます。特に朝鮮人は迫害され、昭和3年から5年にかけて支那人との対立紛争は100件を数えたといいます。昭和6年2月「鮮人駆逐令」によって満州から朝鮮人が追い出される事態になり、朝鮮人たちは行き場を失い、万宝山に入植しようとしました。ここで、7月に支那人と衝突する事件が発生しました。(万宝山事件) 同じころ、地図作成のために興安(こうあん)嶺方面を偵察中の中村大尉が張学良軍に捕らえられ殺害される事件が発生しました。

 朝日新聞 南鮮版 昭和6年9月12日付
支那問題に対する 輿論(よろん)はますます硬化す 内鮮人一様に憤慨 中には取り越し苦労する者もある」
「【京城】中村大尉事件に対して鮮内における内地人側の輿論(よろん)はますます硬化しているが朝鮮人側の輿論は果たして内地人側と同一歩調をとっているか・・・右に対する情報を総合すると朝鮮人側も支那の不遜な態度に対しては内地人同様憤慨している・・・」

 日本の軟弱外交に対してエスカレートする張学良の反日侮日に世論は沸騰していきました。沸点で起こったのが満州事変です。そして満州国建国が終着点なのです。



参考文献
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)
 SAPIO 2010.5.26「朝日新聞<朝鮮版>の研究」水間政憲
 芙蓉書房出版「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(著)/田中秀雄・先田賢紀智(訳)

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 軍旗(旭日旗)を掲げ自動貨車で進軍する日本陸軍の歩兵連隊 昭和6年(PD)

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張作霖爆殺事件の謎

河本大佐犯行説は本当か。


 1911年の辛亥革命によって支那大陸では清国は消滅し、共和国が出来ましたが、群雄割拠の不安定な状態が続いていました。満州では張作霖軍閥が力を持ち、日本の関東軍が後援していました。
 昭和3年(1928年)4月、蒋介石の国民革命軍が北伐(北洋軍閥征伐)を開始し、北京にいる張作霖をターゲットにしました。日本は張作霖満州への撤退を勧告しました。そして6月4日、張作霖満州奉天へ向かう途中、列車が爆破され死亡しました。

 この爆殺事件は関東軍の河本大佐の犯行で、河本大佐はこの事件をきっかけに部隊を出動させ、満州を一気に占領しようとしていたと言われていました。ところが平成3年(1991年)12月にソ連が崩壊するといくつかの秘密文書が明らかになり、平成17年(2005年)に出版された「マオ − 誰も知らなかった毛沢東」に次のように書かれていたことから話題になります。

張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているがソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」

 これはアレクサンドル・コルパキジとドミトリー・プロホロフ共著による「GRU帝国」がもとになっており、エイチンゴンとともにゾルゲの前任者サルヌインが深く関わっていたと説明されています。GRUというのはソ連参謀本部情報総局のことでゾルゲ事件で有名なリヒャルト・ゾルゲもその管理下にいた巨大組織のことです。創設時はレーニントロッキーの管轄にありました。

 なぜ、ソ連張作霖を消す必要があったのか?張作霖反共主義であり、ロシアが建設した中東鉄道(旧東清鉄道)を威嚇射撃したり鉄道関係者を逮捕したりしたため、ソ連は遂に張作霖を消すことになり、破壊工作の実力者サルヌインに命令が下り計画、実行したというものです。第一回計画は失敗しましたが、サルヌインはグリーシカという暗号名で上海を暗躍し、モスクワから再度、張作霖暗殺指令がエイチゴンを通じて伝えられました。昭和3年(1928年)初頭の頃と思われます。前年には張作霖の指示によりソ連大使館捜索と関係者の大量逮捕があったことが背景にあります。

 そもそも河本大佐の犯行説も線路脇の土嚢の中に爆薬を仕掛けたことになっており、そこから200メートル離れた守備隊の監視小屋まで伝導コードを引いて、タイミングを合わせて爆破したとされています。しかし、現場の地面に大きな穴が開いてないし、列車も脱線せず、車輪も車台も破壊されていません。列車の屋根が吹き飛び、上を通る満鉄の欄干に被害が出ています。つまり爆発は列車内の屋根あたりだったということです。また伝導コードが現場に残されていましたが、それはあまりにも間抜けな話であり、事件に関わった東宮大尉の証言と思われるものには「爆発後コーを巻き取った」となっています。それなのにコードが残されていました。

 事件はイギリスの情報部も関心を示しており、「ソ連が引き起こした可能性には、一定の形跡がある」としています。
 「張作霖の死に関するメモ」イギリス外務省あて中間報告文書
「調査で爆弾は張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論に至った。ゆっくり作動する起爆装置、ないしは電気仕掛けで点火されたと推測される。
 ソ連にこの犯罪の責任があり、犯行のために日本人エージェントを雇ったと思われる。決定的な判断に達することはできないにしても、現時点で入手できる証拠から見て、結局のところ日本人の共謀があったのは疑いのないところだ」

 さらに、張作霖の息子、張学良は蒋介石の国民党に極秘入党していたことがわかっています。張作霖の死後、張学良が奉天派を束ね、父の政敵だった国民党とさっさと和解しました。昭和3年(1928年)12月29日、奉天城内外では五色旗をおろし、青天白日満地紅旗を掲げました。このとき実に多くの赤旗が混じって翻っていたといいます。

 これらのことを総合するとソ連コミンテルン)指示のもとに列車内に爆弾を仕掛け爆破したのが張学良系統、カモフラージュが河本大佐系統という図式が見えてきます。



参考文献
 PHP新書「謎解き 張作霖爆殺事件」加藤康男(著)
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)

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 張作霖乗車の列車が爆破された直後の写真。朝日新聞2008年6月15日の紙面によれば撮影者は朝日新聞社カメラマンであった宮内霊勝。(PD)

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皇帝は自ら満州へ行った

ラストエンペラーで有名な皇帝溥儀は満州国を望んだ。


 1924年10月、支那では馮玉祥(ふう ぎょくしょう)によるクーデターが発生し、北京の紫禁城にいた清王朝の皇帝溥儀(ふぎ)は紫禁城から追放され、11月29日に北京の日本公使館に入り、日本政府による庇護を受けることになりました。翌1925年2月には溥儀の忠臣・鄭孝胥(てい こうしょ)と日本の支那駐屯軍、駐天津日本国総領事館の仲介で、溥儀一行の身柄の受け入れを表明した日本政府の勧めにより天津市の日本租界の張園に移ることになりました。

 これらの皇帝溥儀の一連の行動は日本が招いたものではありません。溥儀の意思であり、溥儀の家庭教師をしていたジョンストン博士が「北京なら日本公使館が最も安全」と勧めがあり、イギリスの公使もジョンストン博士の意見に賛成していました。

 1928年7月、溥儀にとって生涯忘れることの出来ない大事件が勃発しました。帝室の御陵(お墓のこと)が爆破され、冒涜されたのです。御陵には莫大な量の宝石や貴重品が埋葬されており、それが奪われ、棺は爆破され、西太后の遺体はずたずたに切り刻まれ遺骨が四散しました。皇帝の使者が御陵に訪れたとき、目にした光景は筆舌に尽くしがたいほど忌まわしいものだったといいます。この事件の首謀者には国民政府の将校もいましたが、刑罰を受けることなく、掠奪品の保持も許されました。そして国民政府は皇帝に対して遺憾の言葉すら発することはありませんでした。

 ジョンストン博士
「私が皇帝を訪ねたときは、目だった変貌ぶりを見せていた。あまりにも変化が著しいので、皇帝は侮辱された先祖の霊魂と霊的な交わりを持ったのではないか。そして、それまで自国と祖先を辱めた支那に向いていた顔を、三百年前に帝國の強固な礎を築いた国土に向け、満州を注視せよと、先祖の霊魂にせきたてられているのではないか、と思ったほどだ」

 このとき溥儀は支那と決別し、満州王朝の復権を決心したことでしょう。この頃、溥儀を皇帝にしようと清朝系の人たちが「復辟(ふくへき)運動」をおこしており、皇帝溥儀と遂にベクトルが一致しました。

 我々日本人は戦後教育と戦後言論空間に洗脳され、日本軍が暴走して満州を侵略したという認識を持っている人が多いと思いますが、こうした満州王朝復権の流れが別にあったわけで、この歴史は知られないようにされてしまっています。ジョンストン博士の著書「紫禁城の黄昏」など岩波出版は改竄を行うという手まで使っています。

 日本は日露戦争で得た南満州の権利が張学良軍閥によって侵害されていきました。日本人への土地貸与の禁止、森林伐採権や鉱山採掘権などの否認、関東軍の撤兵要求、満鉄の接収など、要求はエスカレートするばかりでした。また当時日本国民であった朝鮮人に対する迫害はひどいものでした。この窮状を打破するには武力による解決もやむなしという気運が関東軍を覆っていきました。

 そして昭和6年(1931年)9月18日、満州事変が勃発しました。このときには既に奉天特務機関の土肥原賢二大佐が天津の工作を行っており、溥儀にも「ご機嫌」伺いと称して何度も訪れていました。事変をきっかけに遂に土肥原大佐は「今こそ清朝を再興すべきときです。ぜひ満州へおいでください。日本は陛下を全面的に支援いたします」と溥儀に語りました。日本は満州の権益を守るため安定した政権が満州に欲しい、溥儀は満州王朝を再興したい、日本と満州王朝の利害が一致しました。そして満州国が建国されたのです。

 後の東京裁判で溥儀は関東軍は私を無理やり拉致連行して満州へ連れて行った」と述べていますが、これは真っ赤なウソであり、溥儀の弟の溥傑(ふけつ)は「兄の溥儀が満州事変で、日本人に連れられて天津から満州へ脱出したのは、われわれの利害と日本の利害が、双方一致したからだ」と述べています。ジョンストン博士も「皇帝は本人の自由意思で天津を下り満州へ向かったのであり、その旅に忠実な道連れは鄭孝胥と息子の鄭垂だけであった」と著書に記しています。



参考文献
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 祥伝社黄金文庫紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン(著)/中山理(訳)/渡部昇一(監修)
 WAC「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)
参考サイト
 WikiPedia愛新覚羅溥儀

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 1917年張勳のクーデター(12日間で失敗)復辟時の溥儀(PD)

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紫禁城を脱出したラストエンペラー

満州国建国の流れは既に大陸にあった。


 1911年10月、支那大陸では「武昌起義」といわれる清朝に対する反乱がおき、清朝は崩壊へとつながりました。辛亥革命です。翌年は清の18省のうち、14省が独立を宣言し、孫文を臨時大総統に選び、中華民国臨時政府が誕生しました。清朝は下野させていた袁世凱(えん せいがい)を呼び戻して総理大臣に任命し、革命派の討伐を命じます。孫文清帝を退位させたら、大総統を袁世凱に譲ると密約したので、袁世凱は皇帝号を廃さず、年金を得て生涯紫禁城で生活するという条件で、宣統帝溥儀を退位させ、清朝は滅びました。この宣統帝溥儀が「ラストエンペラー」といわれる人です。

 ラストエンペラー溥儀は1906年年2月7日生まれ。清朝が滅びたときはわずか6歳でした。支那の共和国(中華民国)が誕生し、北京には大総統がいながら、清の皇帝が存在していたわけです。しかも共和国は溥儀が「皇帝」の尊称を使うことを許していました。王朝の名称が領土の地理を表すわけではありませんから、溥儀は清の皇帝であって、支那の皇帝ではないということです。

 皇帝溥儀は紫禁城の中で成長しました。紫禁城の外に出ることは許されませんでした。しかし、1921年9月30日に皇帝の母親にあたる醇親(じゅんしん)王妃が死去したため、皇帝は紫禁城を出て北京北部の醇親王宅へ行き、亡き母に最後の別れの挨拶をする機会を得ることができました。喪があけて、皇帝は市外を遊覧したいと申し出ましたが、周囲の反対にあい、実現できませんでした。皇帝は今度は自動車を購入し、帝師の病気見舞いに行くことは可能になりました。

 皇帝溥儀は成長していくうちに紫禁城内の生活に嫌気と共和国からもらう「年金」で生きていることに対して屈辱感を覚えていきました。1922年に正妻の婉容、側室の文繍と結婚。1923年2月、溥儀は紫禁城脱出を試みます。これには満州軍閥張作霖が背後におり、皇帝を天津に連れ出し、満州にある先祖の墓所を参拝させる予定でした。しかし、この計画は直前に露見し、紫禁城の門は固く閉ざされてしまったのです。

 北京英字新聞 3月23日
「前皇帝は近々満州奉天行幸され、先祖の墓所を参拝なさるだろうとシナの人々の間では報じられている」
「皇帝は成婚に際し、花嫁を先祖の陵墓に連れてゆくのが古代からの習慣であるが、皇帝と張作霖との関係がどのようになるのかは意見百出であるため、この満州行きの噂が原因で、政界にかなりの動揺が広がっている。ただし、この報道の真偽を確かめることはできない」

 支那では共和国が誕生したと言っても、非常に不安定であり、君主制復活を望む声も多く、政治的に色々な思惑がありました。皇帝が満州に行くということは、満州支那の支配から独立するということを意味しています。満州支那は古来より別の土地であり万里の長城で区切られています。清王朝発祥の地が満州であり、溥儀にとっては故郷になります。

 皇帝溥儀が紫禁城を脱出することが出来たのは1924年の馮玉祥(ふう ぎょくしょう)によるクーデターがきっかけになります。11月5日、馮玉祥の軍隊が城内に侵入し、城を封鎖し、溥儀の電話が切断されました。北京の満州人は皇帝の身を案じ、悪い噂が流れ、パニックになりましたが、皇帝は紫禁城から追放され、父親の邸宅(北府)にいることがわかり、パニックは沈静化しました。

 11月29日、皇帝溥儀は家庭教師のジョンストン博士らと北府を脱出。ジョンストン博士は日本の芳沢公使と交渉し、皇帝溥儀は日本公使館へ入りました。北京では皇帝溥儀の逃亡は大ニュースとなり大騒ぎとなりましたが、芳沢公使は北府に取り残された皇后奪還を決断し、部下の芝浦氏に「絶対に皇后を連れて戻って来い」と厳命し、自身は共和国政府に対して「皇后の行動にどのような拘束も加えないよう」と礼儀正しく、かつ断固とした要求を突きつけました。そして芝浦氏は意気揚々と皇后を連れて日本公使館へ戻ってきました。こうして皇帝溥儀は紫禁城の籠の中から自由の身となり、この約10年後、満州国皇帝に即位しました。



参考文献
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 祥伝社黄金文庫紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン(著)/中山理(訳)/渡部昇一(監修)

添付画像
 清朝皇帝時代の溥儀(右)と、父・醇親王に抱かれた弟・溥傑(PD)

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