満映の甘粕

満州に見た夢。それは歴史に刻まれた。


 大正12年(1923年)9月16日、関東大震災の混乱の中、無政府主義者大杉栄が殺害され、裁判の結果、憲兵麹町分隊長・甘粕正彦大尉が有罪となり10年の実刑判決となりました。この甘粕大尉は後に満州に渡り、満州建国を裏表で支え、満州映画協会(満映)の理事長となりました。

 昭和14年(1939年)11月1日、満映本社に初出勤した甘粕は9時きっかりに庶務課長を呼び、重役や部長はどうしているか聞くと、「いつも10時ごろには出てきます」と答えが返ってきました。甘粕は車を出して皆を呼びにいくよう指示を出し、幹部らは恐る恐る理事長室に集まります。

甘粕「足で歩いてくる人たちが9時に出勤しているのに、自動車の迎えを受ける人が時間を励行しないのは間違いです。明日から重役も部長も9時に出勤してください」

 挨拶など抜きでいきなり幹部を叱りつけたかと思うと、今度は全社員を行動に集めるよう指示します。そして「私は甘粕正彦です。今度、理事長に就任しましたから、よろしくお願いします」とたったこれだけの挨拶をしました。職員一同を代表して総務部長が前に進み出て「わが満州国の生みの親、建国の父として余りに有名な甘粕先生を理事長として迎えましたことは、私ども一同の大きな喜び・・・我々粉骨砕身、社業の発展に努力し、満州の地に骨を埋める覚悟をもって・・・」。すると甘粕は「もうよい。やめなさい。やめるのです!」とドスのきいた怒声で遮り満州の功労者というお世辞は私には当たりません。粉骨砕身などという美辞麗句をいくら並べても、心に誠がなければ何もなりません。私たちは日本人ですから、死んだら骨は日本に埋めるのです!」と述べました。

 翌日、総務部長はいきなりヒラに降格。さらに履歴書で高学歴を詐称したものはクビとし、社員の5%がクビになりました。人事の大異動が行われ、高い地位から降格するもの、いきなり月給がハネあがるものがでます。しかし、クビにしたものは再就職の面倒をちゃんと見たほか、徴兵を理由にクビになっていた社員は復職させるようにしました。

 甘粕はスタジオの整備をはじめ。ドイツから高額の機械を買い入れ、スタジオの稼働率を上げる計画をたて実行しました。そして無味乾燥な国策映画より民衆が楽しめる劇映画に主力を注ぎました。

 甘粕は前科ものアカ思想のものでも有能であればお構いなしに採用しました。その中には日本共産党が資金調達のため川崎第百銀行大森支店を襲ったギャングの首謀者、大塚有章がおり、「人殺しの次はギャングか。何だかヘンな会社になってしまったな」とボヤく社員もいたといいます。

 李香蘭(山口 淑子)というスターも甘粕の下で誕生しました。「富貴春夢」「冤魂復仇」「熱血彗心」と立て続けに出演して評判となり、満映東宝の合作「東遊記」では原節子高峰秀子沢村貞子藤原鎌足と共演しました。

 甘粕は強気の企業家として部下に慕われ、満州人、朝鮮人からも尊敬され慕われていました。日本からやってきた文化人も甘粕ファンになった人は多く、藤原義江(オペラ歌手)、朝比奈隆(音楽家 指揮者)らはしばしば甘粕を訪ねたといいます。俳優の森繁久彌は新京放送局の職員で満映文化映画のナレーターを務めたことがあり、甘粕についてこう語っています。

満州という新しい国に、われわれ若者と一緒に情熱を傾け、一緒に夢を見てくれた。ビルを建てようの、金をもうけようのというケチな夢じゃない。一つの国を立派に育て上げようという大きな夢に酔った人だった」

 昭和20年(1945年)8月15日、日本敗戦。甘粕大尉は満映関係者の帰国手配などを終えたあと、20日6時5分、服毒自殺しました。

 森繁久彌
終戦直後、放送局で甘粕さんに会った」「廊下ですれ違うと、珍しく甘粕さんの方から『森繁君』と声をかけてきて『満州はよかったなあ』と握手した。私はとっさに − あ、甘粕さん、死ぬんだな − と直感した。だが何も言わなかった。何もいえなかった」

 甘粕大尉の遺体は20日午後5時、満映の撮影所を出棺。満州人、朝鮮人ら、彼を悼み葬列に従った者は3000人。その長さは1キロメートルにもなったといいます。



参考文献
 ちくま文庫「甘粕大尉」角田房子(著)
 ワック出版「歴史通」2010.3『満鉄・満映世界遺産だ』佐野眞一
 新人物往来社歴史読本」2009.9『満州映画協会』清永孝

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 満映スターたちのアルバム(PD)

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満州の甘粕

孤独な男は満州にすべてをかけた。


 大正12年(1923年)9月16日、関東大震災の混乱の中、無政府主義者大杉栄が殺害され、裁判の結果、憲兵麹町分隊長・甘粕正彦大尉が有罪となり10年の実刑判決となりました。甘粕大尉は3年で出所し、昭和2年、婚約者であった服部ミネと結婚しました。ミネは殺人犯となってしまった甘粕をずっと待ち続け、甘粕が婚約解消を3度申し出ても頑として受け入れず、その果ての結婚でした。やがて二人はフランスへ旅立ちます。甘粕大尉は軍籍はもうありませんでしたが、陸軍から費用が出ていました。そして昭和4年2月末に帰国。そして今度は7月に満州へ向かいました。

 昭和4年(1929年)の満州は張学良軍閥が実権を握り、蒋介石国民党に帰順し、条約違反、国際法違反に該当する反日抗日を繰り広げていました。甘粕大尉は奉天憲兵分隊構内の軍属官舎内に起居し、妻の旧姓である服部を名乗りましたが、北京や天津から来る郵便物には「奉天日本憲兵隊気付 甘粕国士閣下」と書かれていたので隊内では「大杉事件の甘粕大尉」ということを知っていました。

 「殺人鬼」・・・満州へ行っても甘粕大尉にはこの視線がついて回りました。「国士」と称されど、人を殺すという恐ろしいことが出来る人、と誰でもそういう目で見てしまうでしょう。
 甘粕大尉が心を打ち解けて話ができた人に関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐がいます。二人とも酒豪で板垣大佐は甘粕を「甘粕君」と呼び、甘粕大尉は板垣を「おやじさん」と言って酒を酌み交わしていました。
 ある暑い夏のこと、うだるような大陸の暑気の中、板垣大佐と甘粕大尉は宿舎で酒を酌み交わし、話が盛り上がって深夜まで呑んでいましたが、当直がお替りの酒を持って二人の居る部屋に入ると、甘粕大尉は目に大粒の涙を浮かべ肩が小刻みに震え、慟哭していました。板垣大佐は無言のまま頷きながら甘粕大尉を見据えていたといいます。どうした話でそうなったのかわかりませんが、甘粕大尉にとって板垣征四郎は心を許せる数少ない人だったということです。

 昭和6年(1931年)9月18日、満州事変が勃発。関東軍は張学良軍を奉天から駆逐しました。9月21日、ハルビン朝銀と日本総領事館に爆弾が投下されるという事件が起こり、関東軍ハルビン派兵を軍中央に打診します。しかし、軍中央と政府は不拡大方針でありノーという回答でした。それからも爆弾事件は続出しました。これは実は甘粕大尉が関東軍ハルビンに進出する理由をつくるために行った謀略であり、ナンバーのない車で夜のハルビンに出没して爆弾を投じ、ある時はピストルを乱射したといいます。もし捕らえられた場合は爆弾で自決する覚悟だったと思われ、当時を知る関東軍の将校は「甘粕は命を捨ててかかっていた」と述べています。軍籍もなく、肩書きもなく、世間からは「殺人鬼」と後ろ指さされ男が満州に命をかけたわけです。

 甘粕大尉はラストエンペラーで有名な清朝皇帝・溥儀の警護の大役を行っています。栄口で皇帝を出迎え、湯崗子温泉に匿い、その後、旅順の大和ホテルに匿いました。皇帝は甘粕大尉に感謝し、「自分はいま貧しくて、何の礼もできない。せめてこれを記念に」といってカフス・ボタンをはずして甘粕に差し出しました。甘粕は「礼を受ける理由はない」と言い、返そうとしましたが、側近から「わが国では、貴人からの贈り物を返すことはできない習慣です」といって止められました。後日、甘粕は友人に「心無いことをした」と語ったといいます。

 昭和7年(1932年)3月、満州建国。甘粕大尉は警務司長となり、次いで宮内府諮議となり裏の男から表の男になっていきました。昭和12年4月には、協和会という建国理念の普及、日満連携の強化を目的とした会の総務部長に就任しました。そのテキパキとした仕事さばきと、よくお偉いさんが使う「善処します」「考えておきます」といった責任逃れの言葉は使わず実行力を発揮するところは人々の尊敬を集めました。

 甘粕大尉には日本政府と満州国政府から勲章が授与されましたが、甘粕大尉は「刑余者だから」と固辞しました。甘粕大尉をよく知る人は「全く私心のない人だった」「寝てもさめても”祖国のため”以外を考えなかった」「満州国を立派に育てたいと心から望んでいた」と語っています。



参考文献
 ちくま文庫「甘粕大尉」角田房子(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)

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 甘粕正彦 昭和15年(PD)

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白人国家の満州侵略計画

白人どもは満州を狙っていた。


 昭和6年(1931年)9月18日の柳条湖事件をきっかけに満州事変が勃発しました。そして翌年、日本関東軍主導のもと満州国が建国されました。

 国際連盟リットン調査団を派遣します。そして出た結論は「満州国を認めない」というものでした。しかし、日本の権益は認められており、満州の民は支那の統治に反対する意向を示していたため、日本政府は連盟の勧告を受け入れても、満州は再び建国に向かうだろうと考えていました。

 ところがリットン調査団の調査の裏で白人国家らが陰謀を張り巡らしていたのです。日本の外務省は嘱託の三浦幸介らの秘密機関に命じてリットン調査団を監視していました。昭和7年5月15日、調査団がは最終調査をおえて満州から引き揚げる1ヶ月前のこと、ソ連軍極東情報機関の長がハルビンのホテル「モデリン」でリットン卿と一時間会談し、アメリカのマッコイ中将と3時間会談していたことを突き止めました。ソ連国際連盟にも加盟していないし、アメリカとも国交がありません。不審に思った三浦はソ連軍極東情報機関の長(アレクセーエフ・ボグダン・イワノフ大佐)を尾行します。

 イワノフ大佐はハルビンから一人で牡丹江をへて、ウラジオストクに向かう専用列車の最後尾に乗車したので三浦らはこの大佐をおそって所持していたカバンを奪い、中身を確認したところ密約である協約草案が見つかりました。それは国際連盟の総会で日本がリットン報告書を受け入れた場合の密約でした。

−−−−−
 ARA密約(アングロ・ルッソー・アメリカーナの略)

1.日本が満州に持つ特殊権益は認めるが、駐兵権は国際共同管理委員会の決定による制限を受ける。
2.国際共同管理委員会に委ねられる地域の一般行政は、次の諸国が行う。

 奉天省アメリカ合衆国
 吉林省:グレート・ブリテン連合王国(イギリス)
 黒龍江省ソビエト社会主義共和国連邦
 熱河省フランス共和国、ドイツ共和国、イタリー王国
 
 この協約の内容および協約の内容は一切公表せず、秘密を厳守する。

−−−−−−

 さらにアメリカとソ連の付属秘密議定書もあり、黒龍江省ソ連が独立させ、その後アメリカに譲り、その見返りに借款の供与と信用状取引に関する一切の便宜、関税の最恵国待遇を約束するというものもあったのです。白人国家らが満州を分割してぶんどろうとしていたのです。特にアメリカは満州に目をつけており、鉄道王といわれたハリマンはこの密約に関係している可能性があります。またこの背後にはフリーメーソン系のイルミナティという結社がおり、謀略を企てたといわれています。

 三浦は外務省に報告しようとした矢先、関東軍憲兵に挙動不審者として捕らえられました。ARA密約を知った関東軍は驚きますが、満州の主導権を持ちたい関東軍は切り札としてこの事実を秘匿し、三浦を監禁しました。

 昭和8年2月14日、国際連盟はリットン調査報告にもどづく勧告書を発表しました。日本政府は受け入れの方針で総会の開催を待っていました。そこへ満州国執政顧問の板垣征四郎少将がとつぜん外務省を訪れ、ARA密約の写しを手渡し、国際連盟からの脱退を迫ったのです。そして日本政府は協議を行い、ジュネーブにいる松岡洋右に連盟脱退を伝えました。



参考文献
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 成甲書房「ユダヤは日本に何をしたか」渡部悌治(著)
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 新京(長春)市の吉野町(PD)

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満州は安住の地、天国だった

理想郷だった満州


 1911辛亥革命以降、支那大陸は混乱が続き、満州軍閥が支配し、治安が悪く、民衆は重税や掠奪に苦しめられていました。そして日本の権益は侵害されていきました。一方、満州の本来の主である清王朝最後の皇帝溥儀は満州行きを目指していました。昭和6年(1931年)9月18日に勃発した満州事変はこうした支那大陸の混乱に対しての一つの帰着点だったといえます。我々は「15年戦争」の始まりとして満州事変を教えられていますが、それは大嘘です。

 満州は「五族協和」のスローガンのもと「王道楽土」の理想へ向け、満州人、支那人と、日本の内面指導や投資により発展していきました。

 EUの父と言われたクーデンホーフ・カレルギーの当時の論文
「今日において満州支那全州で最も繁栄し最も発展した地方であり、人口は増殖し、各種工業の隆盛における経済上の一中心である。日本は幾十億の巨額を投資し、支那革命の混乱の間に在って此処に能く治安の別天地を作り、支那全土の各地方より来る幾百万の支那人移民に安住の場所を与えた・・・」

 「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(1931年上海副領事)
「そこに暮らす三千万の中国人には満州国は天国である。中国の領土保全、門戸開放、機会均等を説いたいわゆる『九か国条約』はが結ばれてから十年、一体全体、誰かの役に立ったか。役に立ったとは思えない。逆説的な言い方ではあるが、いくら『条約が破られた』と嘆いたとしても、破られたからこそ、満州に暮らす人に安寧と繁栄がもたらされたのである」

 満州国建国以前、日露戦争によって得た日本の満州の権益は関東州の租借地があり、満州鉄道の付属地がありました。満州事変に至るまで日本官民の努力により近代的な産業地帯となっていました。それ以外の満州の大地は匪賊が跋扈し、軍閥が支配しており、天と地の違いがありました。日本の租借地満州民族の駆け込み寺の存在になっていました。それが満州事変により一気に満州全土に対して治安の安定化が行われ、満州国建国によって国家規模で鉱工業が開発されていきました。

 昭和11年(1936年)4月に第一次産業開発5か年計画が定められ、満州は飛躍期、繁栄期に入ります。電力、鉄鋼、石炭、液体燃料、アルミニウム、鉛、亜鉛石綿、塩、ソーダ灰、パルプ、畜産加工、兵器、飛行機、自動車、車両の増産が図られていきました。満州の熱気を象徴するものに豊満ダムがあります。このダムは吉林省の上流20キロの地点に作られました。貯水面積は620平方キロで琵琶湖大の人造湖が忽然と満州の中央に出現しました。多目的ダムであり、洪水防止、灌漑、飲料水、工業用水、航運、発電に利用されました。このダムの完成後、視察に訪れたフィリピンの外相はその規模と効用の大きさに驚嘆し、「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年が経過している。だが住民の生活向上に役立つものは一つも作っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と歓声を発したといいます。

 日露戦争前の満州は数百万の人口でしたが、辛亥革命のころは1800万人、1915年には2000万人、満州建国6年後の昭和13年(1938年)には3900万人にまで膨れ上がりました。昭和16年には4300万人になっています。年間百万人前後の人間が安住の地、天国、満州目指してなだれ込んでいったのです。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 芙蓉書房出版「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(著)/田中秀雄・先田賢紀智(訳)
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
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 新京・大同大街(PD)

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ラストエンペラー溥儀、満州国皇帝へ

満州の正当な統治者、清朝皇帝・溥儀。


 昭和6年(1931年)9月18日、満州事変が勃発。同11月、天津の日本租界にいた清王朝最後の皇帝溥儀は天津を脱出し、満州へ向かいました。

 溥儀の家庭教師をしていたジョンストン博士
「11月13日、上海に戻ってみると、私的な電話で皇帝が天津を去り、満州へ向かったことを知った。
 シナ人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意思に反して連れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じる者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である。(中略)皇帝が誘拐されて満州へ連れ去られる危険から逃れたいと思えば、とことこと自分の足で英国機先に乗り込めばよいだけの話である。(中略)皇帝は本人の自由意志で天津を去り満州へ向かったのである」

 溥儀はスポーツカーのトランクルームに身を隠して脱出。料亭・敷島で日本の軍服に着換えました。天津軍司令部の車で軍の蒸気船「比治山丸」に乗船し、塘沽(たんく)港外で「淡路丸」に乗り移りました。ここから営口まで猛烈な銃撃を浴びましたが逃げのび、営口埠頭に到着します。そして関東軍が派遣した甘粕正彦が皇帝に付き添い、汽車と馬車に乗り、湯崗子温泉に到着しました。

 そして昭和7年(1932年)3月9日の建国式典で溥儀は満州国執政に就任します。

 ジョンストン博士
「皇帝が北へ向かうと、彼の乗った特別列車はあちこちの地点で停車し、地方官吏やその他の役人達が主君のところへ来て敬意を表するのを許したのである。彼らは御前に進み出て跪き、話しかけるときは『皇帝陛下』と呼んだ。列車が奉天近郊で初期の満州皇帝の御陵を通り過ぎようとしたとき、ある感動的な出来事が起こった。皇帝が乗車したまま先祖の御霊に敬意を表することができるように、列車がしばし停車したのである」

 昭和9年(1934年)3月、溥儀は満州国皇帝に就任しました。ついに清朝の血を引く溥儀が故郷、満州の地で皇帝に就いたのです。

 ジョンストン博士
「皇帝はシナの国民から拒絶され、追放された今、満州の先祖が、シナと満州の合一の際に持ってきた持参金の『正当な世襲財産』を再び取り戻したまでのことだ」

 支那満州は別の土地であり、満州の正当な主は清朝の血を引くものということです。

 昭和10年4月、皇帝溥儀は日本へ向かいました。戦艦比叡に乗船し、三隻の軍艦が護衛しました。航海4日目には日本海軍の艦艇70隻が、壮大な演習を繰り広げてみせました。横浜に入港すると100機の航空機の編隊が溥儀を歓迎しました。東京駅には天皇陛下自ら出迎えられるという破格の待遇でした。溥儀は特に貞明皇太后大正天皇妃)の慈母のような暖かいもてなしに感動したといいます。溥儀は歌舞伎を鑑賞し、京都を訪れ、君民一体の日本、皇室の伝統と気品と威厳を学んで帰国しました。

 皇帝溥儀の帰国後の演説
「満日親善のため、私はこう確信する。もし日本人で満州国に仇をなす者がいれば、それは日本の天皇陛下に不忠であり、もし満州人で日本に仇をなす者がいれば、それは満州国の皇帝に不忠である。もし満州国皇帝に不忠なものがいれば、とりもなおさず、日本天皇に不忠であり、日本天皇に不忠なものがいれば、とりもなおさず、満州国皇帝に不忠なのである」

 満州国はこれより10年、日本敗戦まで皇帝溥儀の権威の下、発展と繁栄を続けました。



参考文献
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)
 祥伝社黄金文庫紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン(著)/ 中山理(訳)渡部昇一(監修)
 ちくま文庫「甘粕大尉」角田房子(著)
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 「執政」就任式典(PD)

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解放された満州

満州は日本が侵略したわけではない。満州国は民衆が望んだこと。


 1911辛亥革命以降、支那大陸は混乱が続き、群雄割拠の時代に入りました。満州では張作霖奉天軍閥が力を持っており、統治していました。奉天軍閥は塩税とアヘン収入が主でしたが、内戦のため歳入は不足し、民衆の農作物や家畜などあらゆる物に課税し、5年先の税金まで徴収しました。塩税は日本の租借地だった関東州の5倍もありました。驚くことに税収不足を補うため、財産家の誘拐、処刑ということまでやっています。さらに紙幣の乱発で民の生活は圧迫されていました。年間予算の80%は軍事費にあてて近代的装備を保有していました。

 軍閥というのはもともと犯罪者や逃亡者の集まりからスタートした凶暴な組織であり、規律もなく匪賊と同じ体質を持っており、昼間でも民間住宅に押し入り、ゆすり・たかり・強姦などをおこなって住民の憎悪と反感を買っていました。

 支那大陸では「よい人間は兵隊にはならない」という諺があります。

 「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(1931年上海副領事)
「兵隊ならくいっぱぐれはない。銃剣を振り回せば食糧調達は思いのまま。逆に庶民の方は、さしたる目的もない軍隊がやってきて、いつまでも駐留されると、商いはできなくなり、働き手を徴用され、まじめに働いて得た物まで没収される。これでは仲間に入って略奪する方に回るか、入らずに略奪されるか、二つに一つしかない。
 (軍隊に)入っても月々十か十二メキシコドルのお手当がもらえないことが多いが心配ご無用。鉄砲という『食券』がある。軍律もへったくれもあったもんじゃないから現ナマまで手に入る」

 奉天軍閥のやりたい放題は満州の日本の権益を侵害しました。堪忍袋の緒が切れた日本関東軍は昭和6年(1931年)9月18日に決起。関東軍1万あまりは26万の張学良軍を破り、あっという間に満州を制圧しました。そして満州の民衆は奉天軍閥満州から駆逐されたことに快哉(かいさい)を叫んだのです。ここから満州国建設がとんとん拍子に進んでいったのは民衆が関東軍を敵視しなかったからです。関東軍日露戦争以降、満州に駐留しましたが、ロシア軍や軍閥と異なり、軍律正しく、略奪行為を行わなかったため、その好印象があり、解放軍として迎えられたのです。

 昭和7年(2月16日)、奉天に張景恵、臧式毅、熙洽、馬占山の満州四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織され、東北省区の独立を宣言します。そして3月1日、元首として清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀満洲国執政とし、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞を委員とする東北行政委員会が満洲国の建国を宣言しました。

 日本は満州の治安を守り、満州へ投資し、内面指導を行いました。支那大陸初の法治国家とし、貨幣財政を再建し、国土を開発し、近代都市を建設しました。地下資源を開発し、電力開発を行い、重工業を興しました。近代教育を行いました。支那の内乱を避けて年間約100万人が治安がよく発展していく満州国へやってきました。

 当時、大陸を取材していたフレデリック・ビンセント・ウイリアム
満州とは日本人が出かけていって貪り食った。罪を犯した国だとごく普通の人たちは信じているだろう。日本がそこに行ったのは確かだ。しかしもし諸君が満州へ行けば − 満州国 − 日本はサンタクロースの役をこれまで演じていること、満州人が断然幸福であることを発見するだろう。彼らの古いご主人、ロシアと支那はまあ残酷な親方で、ひどく苦しめられたいたのだ。平和と安全、政府とビジネスの安定、鉄道の建設、都市の建設、病院や学校をもたらしたのは日本だった」



参考文献
 芙蓉書房出版「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(著)/田中秀雄・先田賢紀智(訳)
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 芙蓉書房出版「中国の戦争宣伝の内幕」たフレデリック・ビンセント・ウイリアムズ(著)・田中秀雄(訳)
参考サイト
 WikiPedia満州国

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 満洲国の初代内閣(PD)

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国立公文書館 リットン報告に対する外国新聞の論調 昭和7年10月6日陸軍省新聞班
http://www.digital.archives.go.jp/ から検索。

フランス マタン(三日) 調査団が混乱せる支那に於いて認識した事実を報告結論との間には沢山矛盾がある委員会は支那無政府状態よりして日本が斯かる行動に出たことは止むを得ずと認めながら結論では連盟擁護上事実に反した断案を下して居る

フランス プテイバリジヤン(三日) 日本政府が満洲国に対する承認を撤回することを得ない以上リツトン報告の結論は反古となつた

イギリス モーニング・ポスト(三日) 満洲支那人支那政府に好意を持つて居ないことは支那人満洲移住でも知られる

アメリカ 紐育タイムス(三日) リツトン報告は我々の予期して居た如く最も公平且透徹せる見解である

スイス トリビューン 連盟が手を拡げ過ぐるは危険なり 連盟は先づ欧洲を改造すべし

※フランスとイギリスが比較的、日本に好意的。「英国民の大多数は日本に対し同情的」「歴史上よりみるも満州独立は当然のこと。南京政府支那を完全に代表せず」とある。


 国立公文書館の政府のまとめた資料にもイギリス・テレグラフ満州問題はその独立と共に既に解決せられたり」とある。また報告書の矛盾を指摘する論調も目立つ。フランス・マタンは「日本が自力に依り将に延びんとする共産@の魔手に対して満州国を防護せんとするは理由あり・・・」とあり、当時の国際世論がソ連共産主義の南下を脅威としてみていたことがわかる。

 いずれにしろ国際世論は一方的なものではなかった。それを一方的に「日本悪」としてみる日本の言論空間は戦後創られた東京裁判史観、自虐史観以外の何者でもない。


満州事変、そして満州制圧

満州事変は何だったのか。


 1911年の辛亥革命によって支那大陸は動乱の時代を迎えました。日露戦争によって数万の日本人の血と引き換えに日本は満州鉄道などの権益を持っていましたが、支那人は自分たちはロシアの侵略に対し、一滴に血も流さなかったにも関わらず、満州の地で排日侮日運動を展開し、条約違反、国際法違反を繰り返し、日本の権益を否定しはじめ、当時日本国民であった朝鮮人を迫害し、中村大尉を惨殺するという暴挙に至りました。そして昭和6年(1931年)日本の関東軍によって満州事変が勃発しました。

 「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(1931年上海副領事)
「1931年9月18日、事件が起きた。日本では強硬派が主流派となり、中国を憤る声が強まり、古老の幣原の提唱する穏健派の平和愛好派は後退した。一方、在中米英の官民の大勢はこうである。『中国人は今回、相手を間違えた。この数年、米英人に対してはやりたい放題だったが、同じ手を日本に使ったのが間違いだった。日本人は手強いよ。自ら蒔いた種だ。我々が何年もやるべきだと言っていたことを日本がやってくれた』」

「長年営業妨害をされてきたビジネスマンが晴らせなかった恨みをついに日本が晴らしてくれた、そういう意見(米公使への意見)であった。『頼むぞ、日本軍。徹底的にやっつけてくれ』と熱い思いがこもっていたのである」

「長きに亘る無政府状態、風見鶏の軍閥、排外主義官吏、過激学生秘密結社等が結託し、自らの悪事を隠すため暴徒を扇動する。これに日本の堪忍袋の緒が切れたのである。もちろん、満州の地に日章旗を打ち立て、新帝国を樹立する夢もあったのは確かである。あれだけ挑発行為を仕掛けられ、泣き寝入りすることを良しとしない者が日本軍には少なくなかった。しかし、『もしも』の話ではあるが、もし中国政府が外国権益の破壊運動を地下で扇動しないで、日本の権益が保護されていたなら、満州を征服などしなかったかもしれない」

 26万の張学良軍に対して日本関東軍はわずか1万あまり。それでも、関東軍南満州の主要都市を次々と占領。張学良軍閥は「無抵抗」を掲げながら、遼寧省南西部の錦州では張学良が軍を集結させ、2万の兵と砲70を擁していました。関東軍作戦参謀の石原莞爾は自ら飛行機に乗り錦州を爆撃しました。

 更に関東軍は11月には抵抗する馬占山(ばせんざん)軍と激しい交戦の結果、チチハルを占領し、翌昭和7年2月にはハルビンを占領しました。

 昭和7年(1932年)2月、石原莞爾は東京へ行き満州国建国の理念と理想を説いて回りました。
満州国を理想郷とせねばならない。新たに建設さるる満州は、支那のための失地にあらず、日本のための領土にあらず、日支両国共同の独立国家であるとともに諸民族協和の理想郷である」

 そして昭和7年3月、満州国建国。

 前出 ラルフ・タウンゼント
「あそこ(満州)に暮らす約三千万の中国人には満州国は天国である。(中略) 中国人はただ働けて束縛されずに生きられれば、どんな旗がはためこうと全く気にしない。懐具合がよくて家族が無事でいれば後はどうでもよいのである。台湾、朝鮮、大連統治を見れば、日本は満州国を立派な国にしてくれるであろう。万が一、不具合があったとしても、追い出した連中、常軌を逸した暴君どもよりははるかにましである」



参考文献
 芙蓉書房出版「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(著)/田中秀雄・先田賢紀智(訳)
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 PHP文庫「石原莞爾」楠木誠一郎(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)

添付画像
 中国東北三省(濃い赤)東四盟+旧熱河省の一部(赤)外満洲(薄い赤)(PD)
  満州は現在、ロシアと中華人民共和国に侵略されている状態にあることがわかる。

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