韓国の「中立声明」の欺瞞
日露戦争開戦前の緊迫した1904年(明治37年)1月、大韓帝国は突如「厳正中立」を宣言します。しかし、これは欺瞞でこの数日後に日本側は黄海で、ロシア軍の出動を旅順に要請する手紙を携行する朝鮮人を乗せた小船を拿捕したのでした。その発信者は中立宣言を声明した当の大臣でした。
当時在韓ジャーナリスト、F・A・マッケンジーと大韓帝国の宰相・李容翊との会話
マッケンジー「もし、朝鮮が滅亡から救われようとするなら、改革が必要である」
李容翊「朝鮮は安全である、なぜならわれわれの独立は欧米諸国によって保証されている」
マッケンジー「力によって裏づけられていない条約は無意味であることをあなたは理解していない。尊重されるべき条約を望むなら、それに応じた生活をしなければならない。改革がなされなければ滅亡しかない」
李容翊「他国が何をしようと問題ではない。われわれは今中立であるから、中立の尊重を要請する声明を出した」
マッケンジー「もしあなたが自衛しないならば、彼らは何のためにあなた方を守ってくれるだろうか」
李容翊「われわれはアメリカと約束ができている。アメリカは、いかなる事態が発生しても、われわれの友人である」
しかし、この中立声明は、清、フランス、ドイツ、イタリア、デンマークは承認の回答をしましたが、アメリカは無視。ソウルを占領していたロシアも当然無視というか、日本の進出を抑えようと大韓帝国に"中立声明”をさせた、というのが本当のところでしょう。
2月に日露戦争開戦し、日本が緒戦を飾ると韓国は態度を一変させ、日韓議定書を結び日本が韓国領土を軍事使用することを認めます。日露戦争で日本が次々と勝利していくと、韓国はロシアのあいだに締結されたいっさいの条約と協定を破棄すると宣布し、同時にロシア人やロシア企業に割譲した利権もすべて取り消しました。自らは指一本動かさないばかりか、勝ったほうがわが方という政策では国際社会からは受け入れられません。韓国は日本の保護下におかれました。
米国の外交史家タイラー・デンネット
「韓国人は、その最近の歴史も駐米外交官たちも、ルーズベルト大統領の尊敬や称賛の念をひき起こすことができなかった。・・・大統領にとって、長い間海上に遺棄され、航海に脅威を与える船にも似た韓国が、いまや綱をつけて港にひきいられ、しっかりと固定されなければならないことは明らかだったように見える」
英外相ランズダウン
「韓国は日本に近きことと、一人で立ち行く能力なきが故に、日本の監理と保護の下に入らねばならぬ」
参考文献
「大東亜戦争への道」中村粲著
「韓国併合への道」呉善花著
「親日派のための弁明」金完燮著
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朝鮮半島に上陸した日本軍1904 日付は4・17なので黒木為腊の第一軍と思われる(PD)
乙未事変
閔妃ウェーブを迎撃せよ
19世紀末、日清戦争で日本が勝利した後、三国干渉があり、日本が屈服すると朝鮮の親日派は動揺し、閔妃一派がロシアに接近し、再び力を持つようになります。この当時、王宮を護衛していたのは米国人指揮下の侍衛隊でしたが、ロシアは親日派一掃のため、日本人教官に訓練された「訓練隊」を廃止して武器を押収しようとしました。訓練隊は激昂します。閔妃一派では朝鮮の西太后といわれる閔妃(ミンビ、びんぴ)が実権を持っており、訓練隊は在韓日本有志と反閔妃で連合します。
明治28年10月7日、朝鮮政府が訓練隊解散と武装解除を通告してくると、8日早朝、訓練隊と日韓有志は国王の父、大院君を擁して王宮に入ろうとし、侍衛隊と衝突します。この騒乱の中、閔妃が殺害されます。こうして再び革命政府が樹立されることになります。
大院君の檄文
「近年、閔妃を中心とする一派が善良なる者を排斥し、狡猾なるものを用いて維新の大業を中断した。ゆえに500年の宗社(国家のこと)一刻も猶予なき危機に直面している。余は宗臣としてこれを座視できない。したがって、このたび入闕(にゅうけつ)して大君主をお守りし、邪悪な輩を追い出し、維新の大技をなして500年の宗社を護ろうとするものである」
歴史の流れとしては日清戦争の日本の勝利によって維新の流れになったものの、ロシアと通じて閔妃一派が改革を元にもどしはじめその不満が乙未事変(いつびじへん)となり、再び改革路線へ向かいました。
このところ、NHKやテレ朝がこの閔妃殺害を日本人、三浦公使らの犯行として大々的に宣伝しており、NHKなどは「坂之上の雲」のドラマ中に原作には書かれていないのにわざわざ唐突に捏造シナリオを挿入するという悪質なことまで行いました。プロジェクトJAPANでも捏造偏向報道をやったそうです。テレ朝などは「このこと反日感情の根底」などという大嘘を番組で述べています。歴史的に誰が手を下したか、日本の有志?訓練隊?というのはあまり意味がないのですが、日本人と決め付けてプロパガンダを撒き散らしています。とにかく日本人に贖罪意識を植え込ませる並々ならぬ意欲が感じられます。実際には殺害は訓練隊の禹範善(ウ・ボムソン)によるものと思われ(自白している)、日本人が外国人要人を直接手にかけたとは考えにくいです。三国干渉の直後で国際問題としてこじれると困ったことになります。もちろん戦闘に慣れた三浦公使(陸軍中将)が作戦指揮したことは十分考えられます。しかし、日本軍人が関与しなくてもなんらか形を変えて同様の事件がおきたでしょう。この乙未事変についてはcoffee氏のブログに多くの資料が掲載されており詳しいので文末にURLを記載しておきます。
この事件では朝鮮側の処断は厳しいものでした。訓練隊は解散させられ、同隊長・李斗(王黄)、禹範善は休職を命じられ、閔妃殺害は嫌疑者33名を逮捕して裁判を行った結果、李周会ら3名を処刑しました。李周会は三浦公使が日本で下獄されたことを聞くと「日本のわが国に尽くすこと国を挙げて至らざるなし。この事変に会し、多数志士の拘送を見るに至る。義としてこれを看過すべきにあらず」といって、縛につき、刑場の露と消えました。日韓同志は固い絆で結ばれていたのです。
閔妃は死後、大院君の提言で 身分を剥奪され平民に格下げされました。しかし、その後、特命全権公使の井上馨の尽力によって「明成皇后」という贈り皇族に戻しています。これらのことをマスコミは隠しているでしょう。
参考文献
「大東亜戦争への道」中村粲著
「韓国併合への道」呉善花著
「親日派のための弁明」金完燮著
オークラ出版「反日マスコミの真実2010」『やってくる閔妃ウェーブを迎撃せよ』若杉大
関連記事
閔妃は国母ではない
http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/23946935.html
文中のcoffee氏のブログ記事
正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3836.html
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閔妃の葬儀(死後2年後の1897年 PD)
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クーデター失敗 〜 甲申政変
挫折し暗殺された悲劇のヒーロー・金玉均。
1884年(明治17年)12月4日、金玉均(キム・オッキュン、きん・ぎょくきん)・朴泳孝(ぼく えいこう、パク・ヨンヒョ、日本名 山崎 永春)・徐載弼(ソ・ジェピル)ら開化党によってクーデターが決行され、新政権が樹立されました。朝鮮半島有史初の主権国家が誕生しました。
金玉均は防衛体制を整えるため、武器弾薬庫から武器を運ばせました。ところが、銃も剣もまったく手入れがなされておらず、さびだらけでまずはここから掃除と修理に取り掛かります。事情を知らない日本の竹添公使は他国の軍が宮廷内にいるのもよくないので、日本兵150を引き上げさせようとしますが、金玉均は大慌てで引きとめます。ここで地方官僚の一人が国王の安否伺いと称してやってきます。朴泳孝は退去を命じましたが、金玉均は問題ないとして参内を許してしまいます。この官僚が国王に金玉均らのクーデターについて讒言し、清軍による警護を依頼することを進めます。そして国王は閔妃の助言もあり、清軍の救援を求めることにしてしまいます。こうして清の袁世凱(えん せいがい)は李朝政府の要請という名目を手に入れることができました。
12月6日午後一時ごろ、清軍600が王宮に入り、国王に拝謁したいと要請してきました。金玉均は兵を率いて入ることは許さない、と通告します。一時間後、国王一家、金玉均、竹添公使が対清策を協議しているとき、清軍から一通の封書が竹添公使に届けられ、それを開こうとしたとき、「ドーン」砲声が鳴り響き、清軍の攻撃が開始されます。清軍は1400の軍勢で李朝にも400の軍がいましたが、武器が不十分で訓練も行き届いていないため、いたるところで崩れ、日本兵150で清軍を食い止めねばなりませんでした。
竹添公使「このまま日本軍をここにとどめれば、国王の身を危険に陥れることになってしまう。したがって日本軍を撤収して我々は宮中から退去すべきだ」
金玉均「それは本末転倒であり、あなたは国王の身を護るために来たのではないか」
この二人のやり取りを聞いていた村上中隊長
「この戦いは必ずしもわが軍に不利とは言えない。わが軍は1をもって清軍10にあたるから、それほどの難事ではない。しかも清兵は散在し、これまでの交戦でもみな勝っている。誓って撃退するから、しばらく国王をここに安泰され、諸侯らも安心してとどまっていただきたい」
しかし、竹添公使は撤収を指示します。実際、ここまでの戦闘で日本兵は死者1名、負傷者4名を出しただけで清軍は53名の戦死者を出しており、日本兵は勇敢で団結力も強く訓練が行き届いていたのに対し、清軍はバラバラでまとまりがなく、不利になれば即座に逃げる、という具合で、戦闘をよく知っている村上中隊長の言うことは的確といえるでしょう。竹添公使はそもそも学者であり、文民なので、武士のような「覚悟」を持ち合わせていないのと、日本公使館が気になっていたのではないかと思います。
こうして開化党メンバーと竹添公使、日本兵、日本公使館員は仁川へ脱出しました。仁川では護衛艦日進が入港し、陸戦隊を上陸させて居留民の保護にあたっていました。開化党メンバーは千歳丸に乗船し、日本へ亡命することになります。千歳丸の船長・辻勝三郎は金玉均らを船底に隠しました。李朝側が船内の捜索を要求してきて、竹添公使が仕方なく承諾してくると船長・辻勝三郎は断固たる拒否の態度を示したといいます。このとき、開化党メンバーは自刃決行寸前でギリギリのところでした。
金玉均は小笠原の父島にかくまわれましたが、その後北海道に移り、明治23年(1890年)には東京へ移り、福沢諭吉らの援助を受けます。しかし、李朝政府の差し向けた刺客が出没するようになり、明治27年(1894年)3月、金玉均は上海に連れ出され、暗殺されてしまいました。李朝は彼の死体をバラバラにし、数日間獄門にかけた上、全朝鮮に晒し、胴体を川に投げ捨てました。この無道に日本の国論は怒り沸騰します。このことが翌年の乙未事変にも繋がっています。
参考文献
「大東亜戦争への道」中村粲著
「韓国併合への道」呉善花著
「親日派のための弁明」金完燮著
添付写真
金玉均(1882年長崎での写真 PD)
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興亜の志士・金玉均先生没後115周年墓前祭
http://www.youtube.com/watch?v=wbCo6EvSEHo
クーデター決行 〜 甲申政変
厳冬のクーデター。悲劇のヒーロー・金玉均。
19世紀末、日本に学び、朝鮮の急進的な改革を目指す李朝の外務官僚・金玉均(キム・オッキュン)は閔妃勢力各派の攻撃にあい、四面楚歌の状況になり、引き下がります。日本の在朝公使・竹添進一郎(たけぞえ・しんいちろう)も金玉均ら開化党には冷たく接していました。
1884年(明治17年)5月、清国がベトナムをめぐってフランスとの対立を深め、朝鮮在住の清国軍の半数が本国に異動になります。これを契機に日本政府は金玉均ら独立派を支持する方針に転換します。清との紛争になれば日本はまだ清と戦う力はありませんでしたが、好機が到来したということです。朝鮮が清から離れ、しっかり独立してもらうことが日本にとっての国益だったわけです。
日本政府の方針転換を知らない金玉均は竹添公使に以下のような怒りをぶつけます。
「あなたから理由なしに疑われ、そのために私の計画はことごとく敗退させられた」
竹添公使は反論せず「もし他国が貴国の改革に賛成し援助をしようとしたら、君はどうするか」
金「私は3年前から、わが国が独立して旧習を変革するために日本に手を借りる以外ない、と心に決し、そのために日夜努力を続けてきた。しかし、貴国政府の変幻ぶり、軟弱ぶりのために、わが党ははなはだしい痛恨を残すに至っている。しかるに、公使のいまの発言は、いったい何を言おうとしているのかわからない」
竹添「およそ国の政策というものは時に従って変化し、勢いに応じて動くものだ。必ずしもひとつのところにとどまっているものではない」
金玉均は日本政府の方針変更を知り、クーデターのアウトラインを計画し、米公使や英領事とも会い、クーデターが起こった場合の他国の出方を探ります。国王の高宗にそれとなく打診し、高宗は暗黙の承諾を与えたといいます。開化党100名と竹添公使率いる150の日本兵はその日に向けて着々と準備しました。
1884年(明治17年)12月4日、郵政局開局の祝宴の日にクーデターを決行。開化党、日本兵が王宮への道路の要所を固め、金玉均は「一大事発生」と声を張り上げ王宮に入り、国王に「郵政局に変乱がおき、暴徒らが王宮に向かっているため、至急、正殿から景祐宮に移るよう奉上し、日本公使に保護を依頼するよう奉上し、親書を受け取ります。まもなく閣僚たちが王宮に駆けつけてきますが、開化党により殺害されました。
12月5日、開化党は「朝報」をもって新政府樹立と閣僚の氏名を国民に公表し、ソウル駐在の各国代表にもその旨通知しました。
12月6日、政府の新要領が発表になります。ここには清国からの主権独立、身分制度の撤廃、税制改革、警察制度の新設、行政機構の改編など近代的な国家を作り上げるための措置が含まれていました。残念ながらこの政権は3日天下となりましたが、朝鮮半島有史以来、はじめて独立した主権国家が誕生したわけで、歴史的な出来事です。現在の韓国では金玉均は親日派(国賊という意味)といわれていますが、大韓民国は連合国から与えられた国家であり、自ら主導し独立を勝ち得た金玉均の光がまぶしすぎて消し去りたいのでしょう。
参考文献
「大東亜戦争への道」中村粲著
「韓国併合への道」呉善花著
「親日派のための弁明」金完燮著
参考サイト
コトバンク 竹添進一郎【たけぞえ・しんいちろう】 http://kotobank.jp/word/%E7%AB%B9%E6%B7%BB%E9%80%B2%E4%B8%80%E9%83%8E
朝鮮の維新志士 Kim Ok-gyun
http://www.youtube.com/watch?v=OKiawHiNuWA
朝鮮の独立を指導した日本
日本は韓国の独立を支持していました。
19世紀末の朝鮮の独立運動家といえば金玉均(キム・オッキュン)朴泳孝(ぼくえいこう/パク・ヨンヒョ)らの開化党があげられるでしょう。彼らは両班といわれる貴族出身のエリートです。金玉均は日本の実情をつかむことに大きな熱意を燃やし、国王(高宗)に自らを日本に派遣するよう働きかけたといいます。1882年(明治15年)その願いがかない、金玉均、徐光範が日本を訪れます。金玉均は博多、下関、神戸、大阪、としばし滞在しながら京都に入り、神戸から汽船で横浜へいき、汽車で東京へ行きました。地方裁判所や地方議会、小中学校、師範学校、電信施設などを見学し、練兵場、印刷所、建設会社などを訪れています。東京三田の福沢諭吉を訪問し、この見たを拠点にさまざまな人物と会い、意見を交換し、政治、軍事、経済にわたる主要施設に足繁く通いつめました。
同年に壬午軍乱が勃発して、いったん帰国した金玉均は陳謝の一行として再び日本へ来ています。このとき、日本の新聞は金玉均に注目して多くの記事がかかれ中には人格攻撃する記事もあったといいます。福沢諭吉は「時事新報」の社説で金玉均の擁護を行います。
金玉均は福沢諭吉の影響を強く受け「独立・自立の真の意義」を悟りました。
田保橋潔氏「近代日鮮関係の研究」
「福沢諭吉およびその門下が、近代朝鮮の政治文化に与えた影響はすこぶる大きい・・・福沢は彼らに政治学の初歩を教え、全世界の文明国は、日本初め完全な主権を有するが、ひとり朝鮮は2000年の文化を有しつつ、老大国の蕃属に甘んずる実情を理解せしめた。福沢の教えを受けた朴泳孝・金玉均は初めて独立・自主の真の意義を悟り、これが実現に邁進するに至ったといっても過言ではないであろう」
しかし、金玉均がこうした独立・自主、近代化を学んでも李朝の中で腕をふるう場はなく、理解もされませんでした。また、日本の朝鮮在住日本公使・竹添進一郎も開化党を理解していませんでした。それでも福沢諭吉の門下の井上角五郎の努力によって「漢城旬報」という朝鮮初の新聞を発行するに至ります。
その後、金玉均は税関収入の不正を見抜き、李朝の顧問のメルレンドルフを追求したため、恨みを買います。
メルレンドルフが李朝・閔妃閣僚へ
「朝鮮の害を取り除きたいのならば、当五銭貨は問題ではない。なにかと君主にあざむく諸君の害をなすのは唯一・金玉均だけではないか。諸君はどういうわけで害のもとを取り除こうとはせずに末のほうをおさめようとするのか」
こうして、李朝の閔妃勢力各派は連合して金玉均を攻撃することになります。四面楚歌となった金玉均はいったん引き下がります。そのうち、日本の陸軍戸山学校に留学していた仲間が続々と帰国し、金玉均邸でひそかに会合を持つようになりました。
この頃の日本政府の方針として、開化党を積極支持することはなく、竹添公使も金玉均とことごとく対立していました。万一のときには清と戦争になるからです。まだこの頃、日本は清と戦うほどの力はありませんでした。しかし、清とフランスがベトナムを巡って対立してくると政府の方針は一変することになり、その追い風に乗り、甲申政変が勃発しました。清の属国だった朝鮮に歴史的瞬間が訪れたのです。
参考文献
「大東亜戦争への道」中村粲著
「韓国併合への道」呉善花著
「親日派のための弁明」金完燮著
添付画像
福沢諭吉(PD)
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<付録>---------------------------
1862 壬戌民乱 37件の暴動・・・安東金氏政権から大院君への政権交代へ
1864 東学の崔濟愚が処刑される
1882 壬午軍乱・・・興宣大院君が清へ連れ去られ、閔氏一族清への事大政策へ
1883 閔妃一派が「当五銭」を発行
1884 甲申政変・・・金玉均らが計画したクーデター
1885 天津条約
1892 伸寃運動
1893 65件の農民反乱・・・布教の自由を要求
1894 古阜事件・・・甲午農民戦争へ/日清戦争/金玉均暗殺される/全州和約・・・全羅道コミューン/甲午政変・・・日本軍景福宮を攻撃、高宗と閔妃監禁、革命政府樹立(金弘集)、朴泳孝が革命政府に加わり連立/2次蜂起農民軍と日本軍が衝突(大院君と李筇鎔の扇動)
1895 下関条約/三国干渉/乙未事変・・・閔妃暗殺 再び革命政府組閣
1896 高宗がロシア公使館へ逃げる/高宗の命令により金弘集殺害さる/李完用独立協会=万民共同会を通じて市民運動/高宗が皇帝へ即位/朴泳孝も独立協会へ
1897 大韓帝国へ・・・高宗は皇国協会
1901 東京で孫秉熙と朴泳孝が偶然会う
1903 李容九ら日本から半島へ潜入
1904 進歩会結成/日露宣戦布告/大韓帝国と日韓議定書/維新会結成/一進会結成
1905 ポーツマス条約/乙巳保護条約・・・一進会、外交権を日本に委任せよと宣言書、大規模デモ
1906 統監府初代統監就任・伊藤博文、漢城で民衆に歓迎される
1907 ハーグ密使で高宗が退位 => 一部軍人と一進会&日本軍が交戦
1909 日韓合邦を日本で適当な時期にと日本政府決定/伊藤博文暗殺/一進会による韓日合邦上奏文・・・李完用は純宗にはあげずに握りつぶした
1910 日韓併合条約
朝鮮半島開国後の維新勢力
朝鮮半島維新の歴史。
歴史学者アーノルド・トインビーは文明と文明の接触過程を「挑戦」と「応戦」とし、強大な文明は挑戦されたとき、うまく応戦した文明は生き残り、うまく応戦できなかった文明は消滅するとしています。ソウル大学教授の李 栄薫(イ・ヨンフン)氏は19世紀の日本と韓国では日本の明治維新はうまく応戦できたが、李朝はうまく応戦できなかったと述べています。金玉均(キム・オッキュン)ら開化派の力はあまりにも弱すぎ、李朝が古い文明の原理にあまりにも深く固執したため、と言っています。
韓国で文明に応戦する勢力は金玉均、朴泳孝(ぼくえいこう/パク・ヨンヒョ)らの開化党があり、1884年にクーデターを起こし李朝の閔妃政権を打倒します。しかし、すぐ清国軍がやってきて鎮圧されてしまいます。日本軍は一個大隊しかなく撤退。朝鮮革命軍は壊滅し、金玉均、朴泳孝は日本へ亡命します。(甲申政変)
1894年、金玉均は閔妃の放った刺客に暗殺されます。金玉均の死のすぐ後に甲午農民戦争起こり、清国の出兵にともない、日本軍が出兵し、甲午政変によって革命政府樹立が樹立していますから、金玉均の死は実に残念です。彼が生きていれば日清戦争後に安定した独立政権を保持できたかもしれません。
日清戦争で日本は清国に朝鮮の独立を認めさせたもののすぐ後に三国干渉がおこり、再び閔妃一派が勢力を持ち始め開化派はあせり、閔妃を殺害しますが(乙未事変)、皇帝の高宗はロシア大使館に逃げ込んだため、こんどはロシアが介入するようになります。高宗は革命派の金弘集らを武装警官によって逮捕します。金弘集らは群集によって撲殺され、食われました!?ホントに食ったんです。
韓国は開化派と呼ばれる人たちだけでなく、東学党という農民を中心とする勢力がありましたが、宗教色が強く開化派とは連携できなかったのと、東学党は当初、やみくもに日本排斥に動いていて挫折したというのがあります。ところが、この東学党の3世教主である孫秉熙(ソン・ビョンヒ)が1901年に開化派の朴泳孝らと東京で遭遇するという偶然があり、交流が始められます。ここより二つの「文明に応戦する」勢力がひとつの勢力になる方向へ向かっていくことになりました。そして日本が日露戦争に突入すると彼らは日本を選び、日本を支援することになります。
なにかとこうした韓国の維新期には日本が出てきて、それを悪者に仕立てあげる歴史の捏造がありますが、日本の明治維新を見ても外国勢力というのは介入しており、西洋文明と日本文明の接触ですから当然のことです。日本には英、仏が中心になって介入してきています。韓国でも同じように宗主国である清、南下を目指すロシア、まだ弱小国だった日本が大国の侵略を抑えるために介入したということなのです。
参考文献
「大韓民国の物語」李 栄薫著
「親日派のための弁明」金完燮著
「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
関連記事
朝鮮近代化への道 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/23514718.html
朝鮮・金玉均のクーデタ http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/23529832.html
閔妃は国母ではない http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/23946935.html
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孫秉熙(PD)
The Korean File of Korea under Japanese rule 日韓併合の真実
http://www.youtube.com/watch?v=EjYqF4O7gSQ
創氏改名は朝鮮人の要望
昭和15年(1940年)、朝鮮半島で創氏改名が行われています。朝鮮人にも「氏」の設定(創氏)が義務づけられました。氏は義務でしたが、改名は申請制で申請には手数料がかかりました。それまで朝鮮人は支那の漢姓を使っていました。金、李、朴、といった姓です。この姓は廃止せず、創氏改名後、朝鮮人は氏、姓、名を持ったわけで、日帝が「姓」を奪ったなどというのは韓国の巨大なウソです。一定期間中に創氏の届出をしなかったものについては「姓」をそのまま「氏」としています。
この創氏改名は朝鮮人の要望でした。特に満州における朝鮮人迫害問題が大きく、万宝山事件に代表されるように漢人から朝鮮人は大変蔑視されていました。満州国建国当時、朝鮮人名士の趙悦は「民族協和運動の進展と朝鮮民族、五族協和の理想実現」というエッセイを新聞と会報に載せています。
「在満州の各民族は、支那国民党の国家主義的扇動によって、激しく対立し、各民族の軋轢は日増しに増大している。ことに朝鮮民族に対する圧迫や迫害は言語道断だ」とし、迫害を避けるためには日本名を名乗り、日本国民であることを明確にするしかない、としたのです。
朝鮮総督府は「氏制度の施行せられた所以(ゆえん)は・・・大和大愛の発露であって、これにより半島人(朝鮮人)の要望も容れ、もって肇国(ちょうこく)の皇猷(こうゆう)に報いんとする重要な制度にほかならない」として内地の大反対を押し切って勝手に決めてしまっています。
また、当時5強の一角である大日本帝国の臣民であることは大変なステータスでした。さらに、日本人というのはビジネスで非常に信頼されており、満州や支那で商売するときに支那式の「姓」ではなく、日本式の「氏」を名乗るのは好都合だったことがあげられます。支那事変が起こる前から支那を取材をしていた米ジャーナリスト、フレデリック・ビンセント・ウイリアムズの言葉がそれを表しています。
「もし諸君(欧米人)が東洋に来て、支那人商人からものを買おうとする。同じものにたくさんの値段があるのを知る。もし諸君が東洋に住んだことがあるなら、商人が最初に言った金額を出しはしない。その代わり商人が負けに負けるまで、駆け引きをして値切る・・・(中略) さて、諸君が今度は日本で日本人商人と交渉するとする。商人が決めている最初の売値と諸君が払いたい金額がぴったり一致するということをすぐに理解するはずだ。値段を下げさせて負かす必要もない。値段は公正なルールの下で、適切なマージンが決められているのだ。合理的である。(中略) 平均的日本人相手であれば、こういう(証文の)署名はほぼ(支那人とは)正反対に不必要である。彼の言葉は折り紙付き証文なのである。例外はある。しかし、一般の日本人の中においては、言葉は誠実で守られている。実際上は国民性となっている」
創氏改名で朝鮮人はたいへん得をしたのでした。
参考文献
「日本の植民地の真実」黄文雄著
「歴史を捏造する韓国」中川八洋著
「中国の戦争宣伝の内幕」フレデリック・ビンセント・ウイリアムズ
添付画像
戦前の釜山府の弁天町 国書刊行会「望郷 朝鮮」より(PD)