ペリーとの交渉で通商回避を成功させた林大学頭

優れた交渉術だった。




 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。このときは国書を手渡しただけでしたが、翌年再び来航し、条約交渉が始まりました。アメリカ側は「親睦」「通商」「石炭等の補給」「アメリカ人漂流民保護」を目的としていました。日本側はまずは戦争にならないようにし、「通商」を避けたいと考えていました。交渉にあたったのは幕府応接掛で筆頭は林大学頭(はやしだいがくのかみ)(林 復斎(はやし ふくさい))で林羅山から数えて第十一代にあたります。儒学者朱子学者でもあります。このほか、井戸対馬守、鵜殿鳩翁(うどの きゅうおう)、儒者・松崎満太郎が任命されました。林大学頭は朝鮮通信使の応接にあたったり、オランダ国王の新書に漢文で返事を書くなど外交に携わっていました。

 さて、日米和親条約には「通商」は織り込まれていません。林大学頭はどのように交渉したのか。

ペリー「わが国は以前から人命尊重を第一として政策を進めてきた。自国民はもとより国交の無い国の漂流民でも救助し手厚く扱ってきた。しかしながら帰国は人命を尊重せず、日本近海で難破船を救助せず、海岸近くに寄ると発砲し、また日本へ漂着した外国人を罪人同様に扱い、投獄する。日本国人民をわが国人民が救助して送還しようにも受け取らない。自国人民を見捨てるようにみえる。いかにも道義に反する行為である・・・」

林大学頭「・・・我が国の人命尊重は世界に誇るべきものがある。この三百年にわたって太平の時代がつづいたのも、人命尊重のためである。第二に、大洋で外国船の救助ができなかったのは、大船の建造を禁止してきたためである。第三に他国の船が我が国近辺で難破した場合、必要な薪水食料に十分の手当てをしてきた。他国の船を救助しないというのは事実に反し、漂流民を罪人同様に扱うというのも誤りである。漂流民は手厚く保護し、長崎へ護送、オランダカピタンを通じて送還している・・・」

ここでまずはペリーは林大学頭の反論を受け入れ、自説を取り下げます。そして通商の話となります。

ペリー「では、交易の件は、なぜ承知されないのか。そもそも交易とは有無を通じ、大いに利益のあること、最近はどの国も交易が盛んである。それにより諸国が富強になっている。貴国も交易を開けば国益にかなう。ぜひともそうされたい」

林大学頭「交易が有無を通じ国益にかなうと言われたが、日本国においては自国の産物で十分に足りており、外国の品がなくても少しも事欠かない。したがって交易を開くことはできない。先に貴官は、第一に人命の尊重と船の救助と申された。それが実現すれば貴官の目的は達成されるはずである。交易は人命と関係ないではないか」

ペリーの人命第一を逆手にとった林大学頭の反撃です。これにはペリーは沈黙し、しばらく別室で考えた末に答えました。

ペリー「もっともである。来航の目的は申したとおり、人命尊重と難破船救助が最重要である。交易は国益にかなうが、確かに人命とは関係が無い。交易の件は強いて主張しない」

通商の回避は成功しました。ペリー自身は大統領の国書のほか、政府指示としてコンラッド国務副長官からケネディ海軍長官宛の書簡も受け取っており、ここでは(1)漂流民と難破船の救助・保護(2)避難港と石炭補給所の確保(3)通商、となっており、「通商」は三番目だったため、譲歩したと考えられます。しかし、なんらかの手は打ったという事実を残したかったのかペリーは清国とアメリカの交易を定めた条約文を取り出し、林大学頭に参考にと渡しました。

 ペリーは大艦隊を率いてやってきたわけですから、その武力を背景の強硬に「通商」を迫ることはできたはずですが、幸いにもペリーは論理を無視してまで力ずくで要求を呑ませるという粗暴な人ではなかったようです。

 ペリー艦隊の日本の法律を無視する測量や、抜刀、小銃発砲などの挑発行為、勝手に上陸して日本の防衛砲台に入り込むといった横暴にも日本側は隠忍自重し、戦争を避け、林大学頭の優れた交渉術により「通商」を回避できました。未曾有の国難にあたり、日本側は当初の目的を達成したのです。




参考文献
 ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)
 ハイデンス「ペリー提督と開国条約」今津浩一(著)
添付画像
 黒船来航(PD)

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日本開国へむけてオランダはどういうスタンスをとったか

唯一西洋の通商国オランダはどうしていたか。




 江戸時代、日本は鎖国をしていましたが、オランダ、清とは長崎で通商を行っていました。いってみればオランダは日本との通商を独占に近い形で行っていました。幕末日本が開国か、攘夷かに迫られたとき、オランダはどのようなスタンスをとったのでしょうか。

 19世紀になると捕鯨の船団が日本近海に現れるようになります。北海道方面にはロシア艦船のうごきがあり、アメリカは日本に興味を持っているという情報が入ってきます。こうなってくると遅かれ早かれ日本は開国をしなければならなくなります。ならばオランダはアメリカやその他の列強諸国に対して先導者としてリーダーシップを握り、優位性を確保しようとしました。天保14年(1844年)、オランダは国王の名前で江戸幕府へ開国すべきであるとの勧告書を渡しています。

 そしていよいよアメリカが日本へ艦隊を派遣するとなると、オランダは再び開国勧告を行うことにし、オランダの国益を守るために有能な人材を長崎へ派遣しました。ドンケル・クルチウスです。クルチウスはアメリカ艦隊の詳細情報を「別段風説書」に記載し、幕府に情報提供しました。

 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀沖にペリー提督率いるアメリカ艦隊がやってきてアメリカ合衆国大統領の国書を江戸幕府へ渡しました。そして、来年返事を聞きにくるといいます。幕府はクルチウスから助言を得ようと考えました。長崎奉行の大沢安宅、水野忠篤がクルチウスを訪ねました。

奉行「日本の患(うれい)を除くために穏やかな方法で対処すべしと、昨年の書簡にあるが、それはどのようなことか?」

クルチウス「外国では最近、航海が盛んになり、カリフォルニアより中国、あるいはロシアのカムチャッカなどへの航路上に日本があるため、在米大使からの報告によれば、アメリカは日本に石炭置き場を設けたいと考えている。諸国のうちアメリカが第一番に実現を望んでいる。
 その要望を一切無視して考慮しない場合、ついには戦争になりかねない。しかしながら、御国法をただちに改める訳にはいかないだろうから、制限を緩めることが日本の安全の計策だと考える」

奉行「日本の法度に抵触しない安全の策というのは、どのようなものか?」
クルチウス「外国の考えは、外国船にたいして日本人と同様の計らいが欲しいということだが、これは日本の国法に適わないから、オランダ人や中国人への対応と同様に、場所を限定すれば良い。
 清朝では、外国人を一切拒絶したために戦争となり、その結果、広東など五港を外国人が勝手に出入りできるものとした。このように戦争になっては面白からず、そうならないための安全の策を講じるように」

アヘン戦争で清国はイギリスに香港を取られました。戦争になれば同様の事態を予想せねばなりません。

奉行「もともと日本は小国で人口が多いため、土地の産物も国民が使うには不足しないが、外国に渡す余剰はない。外国と交易することで『自国の用を欠き』、百年もつはずのものも五十年で尽きてしまう・・・」
クルチウス「・・・近年の時勢の変化からみて、このままでは済まされまい。外国も、もともと御国と同様であったが、積年の練磨により、次第に国法を改め、富福強盛となったもので、エゲレス(イギリス)、フランス、ロシア、オランダなども同様である。一挙に国を開くのは無理だから試みに一港を開くのはいかがか」

奉行は通商について懸念を示しています。江戸時代、日本は国内だけで循環させる経済を築いていましたから、通商を行うと物資が不足する懸念があります。実際、この後の安政五カ国条約で通商が始まると国内の物資が不足し、インフレに陥りました。通商については奉行とクルチウスはさらに突っ込んだ意見を交換しており、幕府としては通商はなんとか避けたいという思いが強かったことがわかります。ちなみにこの後締結した日米和親条約の交渉中、日本側がしつこく注文をつけてくるのをペリーは辟易(へきえき)したようで、「日本遠征記」に「例えば『商品』という語を『物品』に換えるというような、どうでもいいような言い換えをいくつもさせられた」と書いています。「商品」だと通商を意味するので幕府が神経を尖らせていたことがわかります。

 こうしたオランダのスタンスは他国には比較的歓迎されたようでイギリスの公使オールコックは「日本を西洋の通商のために開放するように努力する一般の期待を勇気付けたのは、オランダ政府である」と好評価しています。




参考文献
 ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)
 ハイデンス「ペリー提督と開国条約」今津浩一(著)
 小学館「ペリー提督日本遠征日記」M・C・ペリー(原著) / 木原悦子(訳) / 童門冬二(解説)
 岩波文庫「大君の都」オールコック(著) / 山口光朔(訳)

添付画像
 ヤン・ヘンドリク・ドンケル=クルティウス(Jan Hendrik Donker Curtius、1813年4月21日 - 1879年11月27日)(PD)

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ペリーは恫喝外交をおこなったのか

平和的交渉とは言えなかった。




 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀沖にアメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(同)の四隻です。大砲は計73門あり、情報では海兵隊も乗船しているといいます。江戸幕府は黒船艦隊が来ることをオランダから情報を得て知っていました。平和的な目的で来日するといいます。黒船艦隊に応対した浦賀奉行所の与力・香山栄左衛門は、大統領書簡と信任状をいれた二つの箱を見て、こう述べました。

「たった二箱の船荷のために大艦隊を組んできたのか」

 時代背景を見るとアメリカは原住民(インディアン)を追い落とし、メキシコと戦争し勝利し、カリフォルニア地方を奪い取り、西海岸まで到達しました。アメリカは野蛮人たちに文明と呼ばれる生産技術とその成果としての製品を教えて、文明の恩恵に浴させ、キリスト教を広めることに熱意を傾けていました。マニフェスト・デスティニーといい、それがアメリカの使命だとアメリカ人は考えていました。

 ペリー提督が海軍長官あてに書いたメモ。(1852年)
「メキシコからカリフォルニア地方を獲得したアメリカは、西海岸を越えて太平洋における領土拡大競争の場へ突入する」
「神は、文明開化の方法によってであれ、その他の方法であれ、アメリカ合衆国に対し、この風変わりな日本人を万国(nations)の一員とする先導役を指名した」

ペリーは完全に上から目線で日本を見ていたわけです。そしてペリーは太平洋に蒸気船航路を確立し、太平洋における商業・貿易を軍事力で統制することを目指しました。ただ、アメリカでは宣戦布告は議会に権限があり、アメリカ大統領フィルモアはペリーに「発砲厳禁」を命じています。

 大統領の「発砲厳禁」の命令があったとしても大艦隊の威容は相当な圧力になります。礼砲を撃つだけでも威圧はかなりのものです。また、自衛のための発砲は許されています。ペリーは浦賀にやってくると海の深さを測定しはじめました。日本の法律では禁じているとあらかじめ通告したのにかかわらず挑発してきたのです。

 大日本古文書 幕末外国関係文書之一
「蒸気船一艘江戸の方へ向かい駆出す、先へはバッテイラ4艘もて、海の深浅を測量しながら行く、川越の手にて差留候処、剣を抜船ふちに顕れ、寄らば斬らんとする仕方を致し駆通り、或は剣付鉄砲に真丸を込、故方船の二三間先を頼りに打をとかし駆通候、川越人数怒りに不堪早船にて浦賀へ問合せ、只今乗込候異船軽侮の致方忍び難き儀也、切しつめ申すへきとの事、浦賀にて、御尤もには候へ共、御内意は何れにも穏便との儀に有之、且つ又彼一艘切しつめ候とも、事済候と申にも無之、諸家申合行届かす、粗忽に手出し致し、却って兵端を開候ては恐入候間」

川越藩のものが測量を中止させようとすると、剣を抜いて挑発し、小銃弾を威嚇のために撃ってきたのです。堪忍ならず、浦賀へ問い合わせたところ、手を出して戦争になるようなことがあってはならない、と隠忍自重を申し渡されたのです。軍事力では勝負になりません。堪えるしかなかったのです。

 ペリー自身が脅しをかけたこともあります。二度目の来航のときです。幕府の応接掛が来るのが遅いので苛立って浦賀奉行の黒川嘉兵衛に次のように言っています。
「条約の締結が受け入れられない場合、戦争になるかもしれない。当方は近海に50隻の軍艦を待たせてあり、カリフォルニアにはさらに50隻を用意しており、これら100隻は20日間で到着する」

 ペリー日誌にも「脅し」とはっきり書いたところがあります。アダムス参謀長が浦賀の応接会場を視察したときのことです。
「アダムス参謀長の今回の訪問で、好ましい結果が得られるとはまず期待できなかった。そこで手っ取り早く成果を引き出すため、脅迫を実行することにした。参謀長が留守の間に、艦隊を湾の奥に前進させ、江戸がこの目で見える地点にまで達したのである。その夜は、市中で打ち鳴らされる鐘の音が、マストの先端からはっきり聞こえるほどだった」

 林大学頭との応酬でもペリーは「戦争」をちらつかせています。漂着した外国人の扱いが非人道的であると批判している話の中で次のように言っています。
「我が国のカリフォルニアは、太平洋をはさんで日本国と相対している。これから往来する船はいっそう増えるはずである。貴国の国政が今のままであっては困る。多くの人命にかかわることであり、放置できない。国政を改めないなら国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決する準備を整えている。我が国は隣国のメキシコと戦争をし、国都まで攻めとった。事と次第によっては貴国も同じようなことになりかねない」

これに対して林大学頭は日本が非人道的であることは誤りであると反論しています。
戦争もあり得るかもしれぬ。しかし、貴官の言うことは事実に反することが多い。伝聞の誤りにより、そのように思いこんでおられるようである。我が国は外国との交渉がないため、外国側で我が国の政治に疎いのはやむをえないが、我が国の政治は決して反道義的なものではない。我が国の人命尊重は世界に誇るべきものがある。この三百年にわたって太平の時代がつづいたのも、人命尊重のためである」

このようにペリーは日本を未開の国と見下し、圧倒的軍事力を背景に恫喝と挑発を交えながら江戸幕府と交渉していったのです。




参考文献
 ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)
 ハイデンス「ペリー提督と開国条約」今津浩一(著)
 小学館「ペリー提督日本遠征日記」M・C・ペリー(原著) / 木原悦子(訳) / 童門冬二(解説)
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 日本の版画に描かれたペリー 嘉永7年(1854年)頃(PD)

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黒船来襲、開国か攘夷か

割れた国論。




 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀沖にアメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(同)の四隻です。大砲は計73門あり、情報では海兵隊も乗船しているといいます。

 来日より下交渉が行われ、6月9日(7月14日)に国書の授受が行われました。応対した奉行は井戸石見守と戸田伊豆守です。ペリーは日本側の事情を考慮して即答を求めず、一旦、日本を離れたと言われていますが、実際は艦隊の食糧、水が十分でないのと贈り物を積んだバーモント号が到着していないという事情がありました。

 ペリーから幕府あての書簡には来春再訪すると書かれています。それまでに対応を練って方針を決めておかなければなりません。合衆国大統領からの国書には「通商」ほか難破船の船員救助や燃料供給について書かれていました。ここで老中首座・阿部正弘は国書受理の2週間後には大統領国書を各界に回覧して意見を求める老中諮問を行いました。現代でいうパブリックコメントです。当時では異例なことで、町人からも意見を募っています。

 老中達(たっし)
「これは国家の一大事であり、<通商>を許可すれば<御国法>(国是)がなりたたず、許可しないなら<防御の手当>(国防の設置)を厳重にしなければ安心できない。彼らの術中に陥らぬよう、思慮を尽くし、例え忌諱(きい)に触れてもよいから、よく読んで遠慮なく意見を述べよ」

 この老中達には800通もの提案書が提出されました。町人からも提出されています。吉原遊女屋の主人、藤吉の提案を見てみます。
「・・・黒船退治のために漁船1000艘を支配することをご許可いただきたい。もし、外国船を発見したならば、奉行所に注進するとともに、その外国船に接近したい。そして、気どられぬように仲良くし、外国船の上で酒宴など催し、わざと仲間の喧嘩をするなど騒ぎを起こし、その船の外国人が口出し・手出しをするのをきっかけにして、ふいに襲撃する。かねて探しておいた火薬庫に火をつけ・・・この作戦では、当方も過半数が焼死するだろうが、お国のために死ぬことは覚悟の上である」

実現性の薄い提案ですが敵の懐に入り込む戦法をとる主戦論です。国難に際して町人が強烈な国防意識を持っていたことがわかります。

 福井藩主・松平慶永(春嶽)
アメリカの要求をのんで、通商を許容すると、わが国の有限の財物を吸い取られ、わが国は衰弱していく」
「ペリー提督は江戸湾内の測量も完了し、かつ、江戸湾を防衛する砲台の不十分なことを調査ずみである。次回の来航にあたっては、勝手気ままに動き回り、争いを挑発し、イギリスの中国におけるがごとき行動をするだろう。といって、期限を区切ってでも通商を許容すれば、これは列強国全体に屈服したというべきであって、日本の国の国辱となるだろう・・・」
「したがって、断固として通商拒否するのが良策である。もちろん、その場合には戦争になるであろうから、ペリー提督がたとえ幾十艘の軍艦を引き連れて来航しようとも、一戦の覚悟で対応すべきである」

 長崎の町名主、兵学者である高島秋帆(たかしま しゅうはん)
「交易が希望であれば、許容すればよい。交易というのは、ある国が一方的に利益を貪るということではない。遠くから海を渡って交易のためにやって来るには、莫大な利益のある交換輸入品がなくては成立しない。利潤のない交換輸入品では、とても引き合わないので列強から撤退することになる」
「宗教を利用して国民を惑わせ、武力を用いずに他国を征服するのは、列強国の作戦である。外国との交易は禍の元だと懸念する向きもあるが、わが国は武勇に優れ、知恵も深くそのような策略にはまる心配はない」
蘭学からは科学技術を学ぶことができる。戦艦製造法、大砲の技術、軍隊の戦法など学んで、列強国と同じレベルになれば、彼らが多大の軍費を費やして遠く海を渡って襲来するのは『彼らの損』となるだろう」

 「大日本古文書」収録の提案書の分類は以下のとおりです。

 開国・積極交易・・・・・・・・・・7
 避戦・交易許容・・・・・・・・・22
 穏やかに交易拒否・・・・・・29
 戦う覚悟・交易拒否・・・・・29
 意見なし・・・・・・・・・・・・・・・・3

 これを民主的思考で見ると断固「交易拒否」だが戦争にならないよう穏やかに交渉し、どうしても交渉がまとまらず、相手が武力に訴えてくるなら一戦やむなし、というところに落ち着くでしょう。実際、老中・阿部正弘は「戦争はなんとしても回避すること」「交易は許可しない」という方針を示して、林大学頭に交渉を任せています。そして江戸湾警備を増強、砲撃用の台場を造営しました。大船建造の禁を解除し、各藩に軍艦の建造を奨励し、オランダへ艦船発注を行い、黒船の再度来襲に備えました。



参考文献
 ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)
 ハイデンス「ペリー提督と開国条約」今津浩一(著)
 小学館「ペリー提督日本遠征日記」M・C・ペリー(原著) / 木原悦子(訳) / 童門冬二(解説)
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 サスケハナ号(PD)

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江戸幕府は黒船が来ることを知っていた

江戸幕府は無知無能ではなかった。




 江戸時代は鎖国をしており、江戸幕府は海外事情に疎く、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊が突然現れて、幕府は仰天して右往左往した・・・黒船来襲はこのような認識を持っている人が多いのではないでしょうか。あと「異国船無二念打払令(いこくせんむにねんうちはらいれい)」というのを知っている人も多いでしょう。外国の船がきたら追い払うというものですが、軍事力の差を考えない無謀な策だったと思っている人も多いでしょう。実際幕府は無知無能だったのでしょうか。

 「異国船無二念打払令」は文政8年(1825年)に発令されましたが、天保13年(1842年)には撤回され「天保薪水令」に切り替えていました。外国の船がやってきたら食糧や燃料を与えてお引き取りいただくという穏健な政策です。この政策の切り替えは「アヘン戦争」を知っていたからです。アヘン戦争はアヘンの密輸を原因とする清国とイギリスの間の戦争です。清国が敗北し、1842年に南京条約が結ばれました。この戦争で幕府はイギリス海軍の圧倒的軍事力を知り、とても武力で外国船を追い払えないことを知ったのです。これらの情報は長崎に入るオランダ船から「和蘭(オランダ)風説書」と清国の船より「唐風説書」というのを提出させて得ていました。

 アヘン戦争という重大ニュースに際して、幕府はオランダ商館により詳細な「別段風説書」を提出させるようにしました。これらの情報源は支那南部の英字新聞です。イギリス側の視点になります。「唐風説書」は清国側の視点になります。両視点の情報を江戸幕府は分析していました。そしてイギリス海軍の強さを知り、海上封鎖によって首都北京の補給が断たれたことを知りました。これを日本にたとえて、もし、江戸湾が封鎖されたらと考えれば、人口100万の江戸は干上がってしまうことがわかります。当時、江戸への物資運搬の大半は海路だったのです。幕府は情報分析の結果、穏健策に切り替えたのでした。

 幕府はこうした情報を分析し、国際法の論理を理解し、超大国イギリスはアジアを侵略しているいのに対し、アメリカは新興国であり、友好的に付き合える可能性があると判断していました。そして嘉永5年(1852年)、オランダ商館長にクルチウスが着任し、「別段風説書」が届けられました。これにアメリカが黒船艦隊を日本に派遣する計画が書かれていました。陸戦用の海兵隊も乗船しているとなっています。おそらく最新鋭のボンベカノン砲を備えているでしょう。時期はいつになるか?季節風の関係からするとやってくるのは来年の夏と予測しました。このときの老中首座は阿部正弘です。

 阿部正弘は黒船来襲を予告した「別段風説書」を主な譜代大名に回覧しました。外様の島津斉彬(しまずなりあきら)にも口頭で伝えており、斉彬が家老に宛てた手紙にそのことが書かれています。

アメリカの事、二十二日(1852年12月3日)、辰(阿部のこと)へ参ったとき、いろいろのことを聞いた。夕刻にまた詳しく話を聞く予定である。・・・アメリカの事は彼の方(オランダ商館長)より聞いており、(老中は)よほど心配のご様子で、いまだ評議定まらない模様、近々また聞くことになろう」

老中首座・阿部正弘、いまで言えば内閣総理大臣です。わずか33歳(満)。阿部正弘は弱冠26歳にして老中首座となり、海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題にあたらせてきました。弘化3年(1846年)にアメリ東インド隊司令官ジェームズ・ビドルが通商を求めて浦賀沖にやってきましたが、このときは鎖国を理由に拒否できました。しかし今度やってくるのは大艦隊という情報です。明らかな砲艦外交です。未曾有の国難にあたって、正弘がかねてから決していたのは「戦争回避」「交易の拒否」の二本柱でした。




参考文献
 ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)
 ハイデンス「ペリー提督と開国条約」今津浩一(著)

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 「阿部正弘肖像画」の白黒写真 二世五姓田芳柳筆 福山誠之館蔵(PD)

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橋下徹氏とB層

橋下氏はB層のコントロールがうまいのか。




 適菜収(てきなおさむ)氏の「B層の研究」はなかなか面白く、日本維新の会の党首である橋下徹大阪市長についてもズバリ切り込んでいます。少し引用します。

「こうした民主的腐敗の行き着いた先が『一からリセットして日本を作り直す』といったファミコン世代の橋下徹だと思います。
 橋下は文明社会の敵です。
 その根底には国家解体のイデオロギーがあります。
 労組と対決姿勢を示したり、保守層向けのリップサービスを怠らないので勘違いされていますが、橋下の本質はアナーキストであり、メンタリティーとしては古いタイプの左翼です」

 氏の論からすると日教組と対決姿勢を示したり、朝日新聞とバトルするのも保守層向けのリップサービスということになります。国旗掲揚、国歌斉唱時の起立や、市職員の「刺青」(これは同和との対決)などもそういうことなのでしょう。

 橋下語録 2010年1月、公明党の年賀会
大阪府大阪市壊す必要がある」「大阪の形を一回全部解体して、あるべき大阪をつくりあげる」

 2011年6月
大阪市が持っている権限、力、お金をむしりとる」「権力を全部引き剥がして新しい権力機構を作る」

適菜収氏によると、これらは典型的左翼の発想なのだそうです。「革命」ということです。さらに引用します。

「徴兵制度の復活や核武装論を熱弁した後で『あれはテレビ番組で世間ウケを狙っただけ』と嘯き、愛国者のふりをしながら『お国のためになんてケツの穴が痒くなる』と述べ、政治とは『自分の権力欲、名誉欲を達成する手段』であるとタレント時代には語ってきた橋下を、『保守』を名乗る人間が持ち上げるという間抜けな構図は、わが国の知的退廃が生み出したものです」

 橋下氏の言動を見ると小泉純一郎元首相に似ていることに気付きます。小泉氏は自民党をぶっ壊す」といいました。そういうセンセーショナルな言葉を短いフレーズにまとめて使うところです。小泉氏が何かのテレビ番組で話をしていたのを覚えているのですが、若い頃、一つのことを長々と演説して選挙に負けたことがあったので、それに反省し、短いフレーズでわかりやすく訴えるやり方に変えたと言っていました。要するにB層向けです。私もこれには“なるほど”と感心したものです。ここでB層について再度、適菜氏の定義を確認します。

「マスコミ報道に流されやすい「比較的」IQ(知能指数)が低い人たち」
「近代的諸価値を盲信するバカ」

$かつて日本は美しかった
適菜氏著書よりJJ太郎が新たに作成

 実際、橋下氏は小泉元首相を尊敬しており、小泉流の短いフレーズでインパクトを持たせる発言や「抵抗勢力」という敵を作り対決姿勢をとることにより、B層の支持を集めたところはそっくり真似をしているようです。おなじやり方をしている政治家がいます。みんなの党渡辺喜美代表です。この人も短いフレーズでキレのある発言をすることに努めています。敵を作ることで支持を集めるやり方は菅直人元首相もやりました。「脱小沢」です。

 まとめますと、橋下氏がアナーキズムを隠し持ち、B層の扱い方を小泉純一郎元首相から学び、B層の支持を得て、維新の会が50超の議席を獲得したというのが現状ということになります。以前の橋下氏と少し違うところは石原慎太郎というご意見番がついたというところでしょう。小泉元首相は“塩ジイ”こと塩川正十郎氏をご意見番として財務相につけ、サプライズとなりましたが、太陽の党、石原氏と合流したのは、小泉流が念頭にあったのかもしれません。

 次の衆院選には橋下氏は出てくるでしょう。石原氏はバトンを渡すはずです。それまで我々は橋下流およびマスコミ報道に惑わされず、橋下徹氏の本質をよく見極めなければなりません。適菜氏の指摘は、橋下氏の「首相公選制の導入」「地方分権の推進」「参議院の解体」というのは民主主義の一般意志による権力の一元化であるといいます。だとするとB層の扱いがうまい橋下氏が「国民主権」という無限定な力を掌握し、独裁的な力を持ち、そのアナーキズム思想により日本国を解体に導くということです。こうしたシナリオは阻止しなければなりません。



添付画像
 橋下徹(PD)

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B層の研究

B層とは何ぞや。



 「B層」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。昨年末、ネットニュースで紹介していたので、適菜収(てきなおさむ)氏の「B層の研究」を読んでみました。読んでなるほど、これは面白いです。では「B層」というのはどういう人たちか?以下定義です。

「マスコミ報道に流されやすい「比較的」IQ(知能指数)が低い人たち」

 また、B層は次のようにも言い換えることができるといいます。

「近代的諸価値を盲信するバカ」

平等主義や民主主義、普遍的人権というのを信じ込んでいる人達で、彼らは新聞を丹念に読むし、テレビニュースも熱心にみます。そして自分たちが合理的で理性的であることに深く満足します。その一方で歴史によって培われてきた「良識」「日常のしきたり」「中間の知」を軽視しますので、近代イデオロギーに容易に接合されます。

「改革」「変革」「革新」「革命」「維新」といったキーワードに根無し草のように流され、彼らは、権威を嫌う一方で権威に弱い。テレビや新聞の報道、政治家や大学教授の言葉を鵜呑みにし、踊らされ、騙されたと憤慨し、その後も永遠に騙され続ける存在がB層なのだそうです。

$かつて日本は美しかった
適菜氏著書よりJJ太郎が新たに作成

 「B層」という言葉は適菜氏の造語ではなく。平成17年(2005年)9月の郵政選挙の際、自民党が広告会社スリードに作成させた企画書「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略(安)」による概念です。この企画書は有権者をA層、B層、C層、D層に分類して構造改革に肯定的でかつIQが低い層」「具体的なことはよくわからないが小泉純一郎のキャラクタ−を支持する層」をB層と規定しています。

 郵政総選挙のときは「改革なくして成長なし」「聖域なき構造改革」と「改革」を全面に押し出し、B層を刺激したわけです。「郵政民営化に賛成か反対か」「改革派か抵抗勢力か」と二元化して、普段モノを考えていない人々の票を集めました。小泉自民党はマーケッティングの手法によって選挙で圧勝したわけです。

 3年半前の総選挙を思い出すと、政治専門ではない一般ブロガーが選挙のことを語っているのをいくつか見ましたが、「変わらなきゃ」「グローバルだし」という言葉が見られました。「変わらなきゃ」は「改革」という琴線に触れたということで、グローバルは「東アジア共同体」なるEUイメージの近代的価値観に触れたということでしょう。B層が動いて政権交代が実現したわけです。しかし、政権交代後、B層は「騙された」と憤慨していったのです。民主党に騙されただけではなく、マスコミにも騙されたのですが・・・

 マスコミはまったく無責任で、民主党政権末期には「期待はずれ」「自分たちも騙された」というような言いっぷりでした。3年半前の総選挙のとき、民主党の公約には「子供手当て26,000円」「予算を組み替えて16兆円捻出」というのがありましたが、政治通であればそんなの実現は無理というのは当然わかっていたはずで、マスコミはたいした検証せず、また外交・安保にビジョンがないことはわかっていたのにスルーして「政権交代」を煽りました。今更「期待はずれ」「騙された」はないでしょう。

 昨年末の総選挙では脱原発がB層の琴線に触れるような話題で、民主党自民党との差別化のために「脱原発」を叫び、未来の党も「脱原発」を叫びました。しかし両党既に国民から見放されていたのと、「脱原発」は一時、マスコミによって熱を帯びて騒がれたものの、冷静になってくると電気料金の値上がりや産業空洞化などを招き、雇用問題が発生するなど、現実を見なければならないことがわかってきました。総選挙のときは既に「脱原発」は賞味期限切れで、B層は見向きもしなかったということです。私は“みのもんた”氏の政治トーク番組を何度かみましたが、みのさんが何かと「わかりやすさ」をコメンテータや政治家らに訴え、「原発は?」と話題をしきりに振っていたと感じましたが、これはB層へ向けて争点を単純化し、「脱原発」を印象付けようとしたのでしょう。みのさんは、民主党の接待を受けていたようですが・・・
 適菜収氏は、B層は政治は素人なのに「分をわきまえる」「身の程を知る」「恥を知る」「一歩下がる」といった日本人本来の美徳が失われてきている中で、何かと参加したがり、プロ、職人の領域に<素人の意見>を押し付けようとしていると述べ、そろそろ目を覚ますべき、と提言しています。そして今求められているのは過去と未来に責任を持つ人間、正気を保っているプロ、職人であるとしています。



添付画像
 講談社「日本をダメにした B層の研究」適菜収(著)

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