幕末期の暦と時刻の違いによる混乱

江戸時代は太陰暦不定時法だった。




 現在の日本の暦は太陽暦を使っていますが、江戸時代は太陰暦を使っていました。月の満ち欠けの周期を1ヶ月とする暦法です。十五夜お月様はちょうど15日になります。太陰暦では1年が354日になるため、閏年をはさんでいました。また季節周期を一致させるため、1年を24等分する二十四節気を併用しています。「立春」とか「夏至冬至」などですね。
 暦は当初、朝廷が作製しており、宣明暦が使われていましたが、貞享元年(1684年)に貞享暦へ移行しています。その後、暦の作製は幕府が実権を持つようになり、宝暦暦、寛政暦、天保暦と改暦されました。

 幕末に西洋人がやってくるようになると、西洋では太陽暦ですから、両暦を変換して日を合わせて会談など行う必要が出てきます。これでイギリスとの条約の批准でちょっとしたトラブルが生じています。

 西暦1859年7月11日(月)
 安政6年6月12日

条約の批准交換を西暦の7月11日に行うことになったのですが、日本側の奉行と通訳が10日の夕方にイギリスの公使オールコックに会いにいき、通訳の森山が批准交換を月曜(7月11日)と勘違いして、それで諸事手配したので11日に早めて欲しい、と願い出たのです。実際11日で正解なのですが、日本側は12日が正解だったと勘違いしました。オールコックもまた11日だと外務省宛には報告していたにも拘らず、このとき12日が批准交換の日だと勘違いして11日に早めるのなら「今晩中に将軍名の批准書を用意することの保証」を求めました。つまり西洋歴11日と和暦12日で双方が勘違いし、トラブルとなったわけです。

 休日も西洋と合いません。1週間があり日曜日は休みの日とするのが西洋で、日曜日はキリスト教でいう安息日です。日本は太陰暦の1日と15日に休みます。日曜日は意識しませんから、日曜日でも西洋人に会いにいきます。アメリカ総領事のハリスは日曜日でも日本の役人がやってくることを日記に次のように書いています。

「日本人が私に会いにくる。日曜日は、誰にも面会を謝絶する。安息日には、あらゆる用務や慰楽を断って、その日の真正な宗教上の慣例をつくることに定めている。とは言え、静かに散歩したり、又はそういう種類の娯楽をやらないというのではない。ピューリタニズムの模範をしめす気はないが、日曜日を、その日が意味するところの日 − すなわち休息の日としたいからである」

 時刻も日本と西洋では異なりました。江戸時代の「時刻」は太陽の動きを基準とした不定時法が採用されていました。日の出が「明け六つ」、日暮れを「暮れ六つ」と定めて昼と夜とをそれぞれ六等分し、その長さを一時(一刻 いっとき)としていました。夏は昼の時間が長く、冬は夜の時間が長くなります。ですから、夏の昼の「一時」は冬の昼の「一時」よりも長いわけです。江戸時代の人々は他の動植物と同じように自然のサイクルで生活してわけです。

 西洋は定時法、つまり現在の我々と同じですから、幕末に来日した外国人とのやりとりの中で不定時法の江戸日本と時間の面でうまく合わないことがおこります。当時は交通も発達していませんから、今ほど時間に厳密ではなかったと思いますが、やはり西洋人にとって時間感覚の違いというのは意識されていました。イギリスの外交官アーネスト・サトウ文久2年(1862年)8月15日来日)が、外国奉行の招待を受けたときの回想で時間の違いについて触れています。サトウは奉行と挨拶と進物のやり取りをした後、次々と到着する客の挨拶を受けますが、これにゆうに一時間はかかるし料理が出てくるのにもたいそう時間がかかります。家人は質素な料理しか作らないので、料理は料理屋から取り寄せているのが一つの理由ですが、時間の違いについても理由としています。

「当時の一般の人々は時計をもたなかったし、また時間の厳守ということもなかったのである。2時に招かれたとしても、1時に行くこともあり、3時になることもあり、もっとおそく出かける場合もよくある。実際、日本の時刻は二週間ごとに長さが変わるので、日の出、正午、日没、真夜中を除けば、一日の時間について正確を期することはきわめてむずかしいのだ」

当時、お寺で「一時」ごとに時刻を知らせる鐘が鳴らされていましたが、季節により変動し、鐘が鳴る間隔である「一時」(約2時間)の間での細かい時刻などさほど意識はしていなかったようです。江戸日本人は1時も2時も3時も昼八つ羊刻という感覚だったのでしょう。

 そして明治に入り、日本は西洋式の暦(グレゴリオ暦)にあわせることになりました。明治5年(1872年)に採用され、明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日(1873年1月1日)としたのです。




参考文献
 講談社「江戸時代の天皇藤田覚(著)
 中公新書オールコックの江戸」佐野真由子(著)
 岩波文庫「大君の都」オールコック(著) / 山口光朔(訳)
 岩波文庫「ハリス 日本滞在記」坂田精一(訳)
 岩波文庫「一外交官の見た明治維新」坂田精一(訳)
 河出書房新社「江戸の庶民の朝から晩まで」歴史の謎を探る会(編)
 双葉文庫「時代小説 江戸辞典」山本眞吾(著)
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(上)渋川春海(貞享暦の作成者)作の地球儀。1695年製。(下)渋川春海作の天球儀。1697年製。ともに重要文化財。(国立科学博物館の展示) Auth:Momotarou2012(CC)

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謹賀新年

 新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。


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 當ブログは歴史を中心に書いてをります。昨年から、近代史だけでなく、江戸時代を多く取り上げるやうにしました。江戸時代の優れた循環型社會、全國民幸福型社會、江戸日本人の徳の高さなどを來日した外國人の觀點を取り上げながら記事にしてきました。思つたより好評をいただいてゐます。本年は人物を絞りながら、描いていきたいと思ひます。ペリー、ハリス、オールコック、モース、イザベラ・バードと云つた人たちは、すぐれた著を殘してくれてをり、日本人が當たり前のやうに思ひ行動してゐたことをしつかり記録してくれてゐます。ここから日本人の持つ美徳や先人の智慧、努力をとりあげ、その歴史の延長上にある現代を見つめたいと思ひます。また、新たな試みとして文學的要素も取り入れ與謝野晶子と云つた人から明治・大正の時代も描いていきたいと思ひます。


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南京大虐殺のデタラメ証言とマスコミ

デタラメ証言あり、マスコミのウソ垂れ流しあり。そして国民は洗脳された。




 昭和12年(1937年)12月、支那事変南京戦がありました。第16師団(京都)歩兵第20連隊(福知山)中隊長だった森王琢(もりおう みがく)さんは平成4年(1992年)4月に岡山国民文化懇談会で講演を行なっています。その中で南京虐殺デッチ上げ証言をいくつか挙げています。

 東史郎(あずましろう)歩兵第20連隊第3中隊上等兵
「『わが南京プラトーン』という著書で随所に諸上官の悪口を書き、戦友の非行として虐殺、強盗、強姦の情景を描写。又『7千人の捕虜を各中隊に分配して殺害した』『中隊長自ら斥候(偵察)に行った』等と書いています」

「わが南京プラトーン」は私は読んだことはないのですが、「京都師団関係資料」に東史郎の証言が出ています。

「21日城内の警備を命ぜられ郡馬鎮を去る・・・何処からか一人の支那人が引っ張られてきた。戦友たちは仔犬をつかまえた子供のやうに彼をなぶってゐたが、橋本は残酷な一ツの提案を出した。つまり、彼を袋の中へ入れ自動車のガソリンをかけ火をつけやうといふのである。泣き叫ぶ支那人は郵便袋の中へ入れられ、袋の口はしっかり締められた・・・橋本は火をつけた。ガソリンは一度に炎えあがった。と思ふと、袋の中で言ひ知れぬ恐怖のわめきが上がって、渾身の力で袋が飛び上がった」

橋本というのは小隊長で、この件は橋下氏が名誉毀損で訴え裁判になり橋本氏側が勝利しています。郵便袋に支那人をいれたと言っていますが、郵便袋は片足しか入らないサイズだったのです。

 曽根一夫 豊橋の歩兵第18連隊の軍曹(分隊長)として従軍。
「『私記南京虐殺』3部作を発表、その中で蘇州河の戦闘につき、『11月7日朝霧の中工兵の人柱による橋上を敵弾を冒して走り、敵弾命中し河中に転落』と書いております」

曽根一夫は砲兵の初年兵だったことがわかり、南京戦では後方にいました。支那兵を間近に見るという戦闘には参加していないのです。専門家ならすぐ見破りそうですが、どういうわけか、歴史学者秦郁彦氏が採用してしまっています。

 「南京事件 『虐殺』の構造」秦郁彦(著)より
「12年8月、上海に上陸して激戦場を生き抜き、南京へ向かう追撃戦に参加したのち、徐州、武漢と中国戦場を転戦した体験をつづった『私記南京虐殺』(正続)は、略奪、強姦、殺人をふくむ自身の残虐行為を率直すぎるほどの姿勢で語るとともに、そこに至る兵士たちの心情を冷静に記録している点で、類書にない特色を持つ」

沖縄の集団自決問題ではいい仕事をした秦氏ですが、この「南京事件 『虐殺』の構造」は完全に「東京裁判史観」を前提に書かれており、これを書いた当時は「東京裁判史観」を維持しなければ飯の食い上げになる立場だったのでしょう。

 こうした虐殺証言などはマスコミによく利用されます。森王琢さんはマスコミの取材姿勢について苦言を呈しています。
「まず、第一に、取材する相手に、虐殺を証言する人間しか選ばないという点があります。虐殺を否定すると思われる人には取材をしません。そればかりか取材をすると何とかデッチあげてでも虐殺に仕立てるという事を致します。
 場合によっては、証言を意図的に歪曲し、時には正反対の解釈をして、証言者がそんなことは言ってない、と憤慨(ふんがい)している例もあります。また、証言者が、『中隊の軍紀は非常に厳正でありました。』などと証言しても、そんなことは一切取り上げようとしません。自分の取材意図に合ってさえいれば、証言内容が明瞭(めいりょう)なウソであると判っていても、そのまま記事にしております。
 宮崎県の農家で写真と参戦者の日記を発見したとして南京虐殺の決定的証拠とした、朝日新聞の昭和58(1983)年8月4日の記事に対し、その写真は満州馬賊の写真で、昭和初期に朝鮮で買ったものであると、読者が抗議しています。
 また森村誠一の「続・悪魔の飽食」に、日露戦争当時の伝染病による死体写真を今次大戦の関東軍の虐殺の証拠写真としていつわって掲載しているのを、読者よりの指摘抗議によって暴かれたのは有名な話です。
 そのような記事について、"そんなことはあり得ないことである"と反論されても、無視し、認めないか、言を左右にしてうやむやにするのが、彼らの常套手段(じょうとうしゅだん)なのです」

 南京大虐殺支那プロパガンダ東京裁判がとりあげてデッチ上げたものですが、日中国交回復後、突然再登場しました。それはGHQ製のマスコミが今度は北京のエージェントとなったということです。南京偽証言を利用して、マスコミの持つ宣伝力を駆使して、日本国民を洗脳していったわけです。




参考文献
 「『南京大虐殺』はなかった」森王 琢(講演録)
 青木書店「南京事件 京都師団関係資料集」井口和起・木坂順一郎・下里正樹(編集)
 明成社「再審『南京大虐殺』」大原康男・竹本忠雄(共著)
 PHP研究所「ひと目でわかる 日韓・日中 歴史の真実」水間政憲(著)
 中公新書南京事件 『虐殺』の構造」秦郁彦(著)
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 南京外交部跡の野戦病院で日本の衛生隊に看護される負傷した中国兵(昭和12年12月20日)(PD)

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スマイスは南京大虐殺を見ていない

国際委員会のメンバーは南京大虐殺を見ていない。




 昭和12年(1937年)12月、支那事変南京戦があり、日本軍による南京占領後、南京大虐殺があったと言われてきました。このとき一般市民は安全区と言われる南京城内の一区画に避難しており、外国人メンバーからなる国際委員会の保護下にありました。この国際委員会のメンバーに金陵大学教授のスマイス博士がいます。このスマイス博士は南京の被害情強を調査し「南京地区における戦争被害」として報告しています。その他見聞した記録が見当たらないと思っていましたが、南京問題研究家の松村俊夫氏が「アメリカ人の『南京虐殺の目撃証人』は一人もいなかった」という論説の中で「南京虐殺の目撃証人」(Eyewitness to Massacre)よりスマイス博士が妻に宛てた手紙を分析しているのがありました。

 スマイス博士の12月20日付家族への手紙
「(12月13日、月曜朝)家(宿舎)へ戻る途中、(午後)1時に日本兵が漢中路に到達しているのを見付けた。我々は車でそこへ行き約6名の小さな分遣隊に会った。それが最初だったが最後ではなかったのだ。上海路と漢中路の交差する角で、彼等はバスを調べたが、人々を傷つけることはなかった」

スマイス博士はラーベ委員長、白系ロシア人通訳のポドシボロフとともに行動していました。

「(12月13日、月曜朝)確かに、約百人の先遣隊が道路の南側に腰を下ろしており、その反対側では沢山の支那人の群集が彼等を眺めていた。私達は将校に対して安全区を説明し、彼の南京の地図にそれを書き入れた(彼の地図には安全区は示されていなかった)。彼は日本兵を攻撃する者がいない限り病院は大丈夫だと言った。武装解除された兵については、彼は何も言うことが出来なかった」

南京大虐殺は陥落の13日から3日間がもっともひどかったと言われていますが、何もありません。

「(12月13日、月曜朝)中山路には、敗走した兵達の武器が散乱していた。山西路サークルに近くなったとき、或る光景に驚かされた。さまざまな衣服を着て自動車を取り囲んだ群集が、角を曲がってやってきたのである。それは、車に乗ったリッグスが、武装解除した兵達のグループを法学院に連れてゆくところであることがすぐ分かった。彼等は自動車を包むようにしていた! サークルでは、武装した一隊にも会った。我々は武器を捨てるように彼等に言ったところ、何人かはそれに従った。
午後4時頃、国際委員会の本部では、スパーリング(ドイツ民間人)と他の人々が 群集の武装解除をしていた。この場所は、武器庫のようになっていた。彼等は、近く の警察本部に行進して行った。凡そ全部で1,300人の彼等の中には、まだ軍服を着て いる者も何人かいた」

 委員長のラーベの日記も確認してみます。やはり敗残兵の武装解除のことを13日の日記に記しています。
「我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった・・・ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は二日後にくるといった。日本軍は北へむかうので、われわれはあわててまわれ右をして追い越して、中国軍の三部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。全部で六百人・・・我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した」

大虐殺などおきていません。外交部と最高法院を捜索した日本兵の記録があります。歩兵第七連隊平本渥氏です。
「(13日)大通りを走りつづけて行くと、右側に立派な近代建築の四階建ての外交部の建物が見える・・・広い中庭では、山積された書類や漆器類が赤々と燃え、そのうえ、地階から運ばれる衣服類が投げ込まれて萌えている。中に入ると各階とも正規軍の負傷者で通路まで塞がり、その殆どが重傷者である」

ラーベ日記、マギー牧師の記録からも外交部は野戦病院になっていたようです。

 松村氏の論説には14日のスマイスの手紙も紹介して、50人の便衣兵が連行されたと記載がありますが、やはり大虐殺など見ていません。スマイス博士は東京裁判で宣誓供述書を提出していますが、この中にも殺人を目撃したことは書かれていません。国際委員会のメンバーとして南京市内を自由に行動できたスマイス博士は南京大虐殺を見ていないのです。




参考文献
 「アメリカ人の『南京虐殺の目撃証人』は一人もいなかった」松村俊夫
 講談社文庫「南京の真実ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 偕行社「証言による南京戦史」
 展転社「『南京大虐殺』はこうして作られた」冨士信夫(著)
添付画像
 南京天文台を警備する日本兵 日新報道「南京の実相」より

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江戸時代に来日した外国人は天皇をどう見たか

江戸時代も天皇は日本の不動の核であった。




 江戸時代は将軍がいましたから天皇と「大君」が二人いたわけです。将軍は政治、行政の長にあり、天皇はというと「禁中並公家中諸法度」により行動は厳しく制限されていました。天皇は学問、管弦、和歌、雑芸、神事、朝廷政務といったことを行うと定められていました。即位、譲位も江戸幕府の意向が強く反映されていました。しかし位は将軍よりも上です。また、三代将軍家光の命により天台宗の高僧、天海が作成した「東照大権現縁起」は神国思想であり、「天下の政(まつりごと)を佐(たす)け」「君を守り国を治めること世に超過せり」とあり、将軍は天皇を守る存在と位置づけられています。

 こうした日本独特の政体の中にある天皇を来日した外国人はどう見たのでしょう。

 オランダ商館付きの医師エンゲルベルト・ケンペル(元禄3年 1690年来日)「日本誌」
天皇は現にその権限(教界に属する事項)を享有し、神々の正統な後継者として認められ、現つ神(あきつかみ)として国民から尊敬されているのである」

 オランダ商館付きの医師カール・ツンベリー(安永4年 1775年来日)「江戸参府随行記」
「将軍以外にもう一人、宗教上の皇帝(天皇)がいる。その権力は現在、宗教および皇室領に関する事柄に限定されているが、この宗教上の君主すなわち天皇は、過去2000年にわたるこの国最古の君主からつづく正統な一系の子孫に当たる」

宗教上の皇帝という見方を示しています。しかし、この宗教的皇帝観に疑念を抱く外国人もいました。寛政11年(1799年)から19年間も出島のオランダ商館長を務めたヘンドリック・ドゥフです。
「世間多くの著作者が言明する如く、内裏(天皇)は精神的皇帝にして、将軍は政治的皇帝なりといふに非ずして、内裏は本来絶対的主権者なりしこと」(ヅーフ日本回想録)

これはロシアのレザノフ使節が文化元年(1804年)に来日し通商を要求したとき、幕府が朝廷の意見を尋ねたことを聞き知ったからです。(実際にはその事実は確認されていない) 幕末に来日した外国人はどうでしょうか。

 アメリカ ペリー提督 (嘉永6年 1853年来日)「ペルリ提督日本遠征記」
「日本は、同時に二人の皇帝を有するといふ奇異なる特質を有してゐる。御一人は世俗的な皇帝であり、他の御一人は宗教的な皇帝である」

 フランス海軍士官スエンソン (慶応2年 1866年来日)「江戸幕末滞在記」
「二宗教の最高権威としてミカドが君臨する。ミカドは神道ではまさに神格化され、神として拝まれているが、仏教の方でも、さまざまな条件により修正をほどこされた宗派では、少し位は落ちるが、一応神としての威厳をミカドに与えている。(中略) ちなみに大君(将軍)は、日本の非常に古い憲法律令)によればミカドの統治官にすぎず、すべての点でミカドの命令に服すべきことになっていた」

宗教的な皇帝として見ています。スエンソンはよく情報を集めています。江戸時代は神仏習合の宗教観であり、天皇は仏教の頂点でもありました。即位礼で天皇密教真言を唱え、手に智拳印(両親指を掌中に入れて握り、左人差指を立てて右拳で握る)を結びます。これによって天皇大日如来になぞらえられます。天皇が仏教から切り離されたのは明治元年神仏判然(分離)令によるものです。

 イギリス外交官アーネスト・サトウ文久2年 1862年来日)「一外交官の見た明治維新
「条約締結の名義人である元首、すなわち将軍が政治上の主権者であって、御門(ミカド)、すなわち天皇は単に宗教上の頭首、ないしは精神界の皇帝(エンペラー)に過ぎないのだと、当時はまだそのように信じられていたのである。(中略) 日本国の政体は、早くも十二世紀において、十九世紀後半の初期になってもまだ見られるような形態をとっていたのである。このように尊厳な、古い伝統を有する制度は、充分に深く国民の中に根をおろして、国民生活の要素となっていると考えてよかろう」

サトウは長く日本におり、「一外交官の見た明治維新」は後年に書いたもので、「当時はまだそのように信じられていた」とある通り、天皇は宗教上の長という見方が大勢だったと述べています。そして本質を次のようにも書いています。

「当時外国人の間では、名分上の君主という単なる名目中に存在する無限の権威についてはまだ全く思い及ばなかったし、また外国人の有した日本歴史の知識では、日本の内乱の場合に天皇(ミカド)の身柄と神器を擁することのできた側に常に勝利が帰したという事実がまだわからなかったからだ。おそらく、世界のどの国にも、日本の歴代の皇帝(エンペラー)ほど確固不動の基礎に立つ皇位についた元首は決してなかったろう」

明治維新で証明されたように天皇不動の核という意識が日本人には染みついていました。将軍すら神国思想であり、儒学者新井白石天皇を「天」、将軍を「地」とし、天皇を概念的にも上に位置づけていました。最後の将軍である徳川慶喜薩長軍に恭順したのも錦の御旗(にしきのみはた)に弓は引けないというのが大きな理由で、後年、伊藤博文から動機を質問されたとき「家訓を守っただけ」と答えています。水戸藩は光圀公以来、尊皇の大義を重んじた家柄でした。

 概ね外国人は天皇を宗教上の長と見ていたようで、これ自体は間違いではありませんが、明治維新で玉を抱いた薩長軍が勝利したのを見て、その存在の世俗性と大きさに気がついたようです。




参考文献
 講談社「江戸時代の天皇藤田覚(著)
 平凡社「江戸参府随行記」C・P・ツュンベリー(著)/ 高橋文(訳)
 講談社学術文庫「江戸幕末滞在記」E・スエンソン(著) / 長島要一(著)
 岩波文庫「一外交官の見た明治維新アーネスト・サトウ(著) / 坂田精一(訳)
 学陽書房徳川慶喜」三好徹(著)
添付画像
 孝明天皇(PD)

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南京郊外の虐殺は支那軍の仕業だった

南京郊外の虐殺を日本軍の仕業にすり替えている。




 昭和12年(1937年)12月、支那事変南京戦で30万という大虐殺があったといわれてきましたが、どう考えても無理があることは多くの人の知るところになってきています。歴史家の笠原十九司氏は虐殺肯定派ですが、「ラーベは(虐殺が)5〜6万と言っているが、彼の目の届かない郊外や、彼が去った後の犠牲者を足すと30万ぐらいになるはず」と時間と地域を広げようとしています。

 南京は城内城外の市街と近郊六県があります。笠原十九司(著)「南京事件」より郊外の句容県の虐殺事件を引用します。
「日本軍が倪塘村にきたとき、婦人や老人、子供はまだ村に残っていたが、侵入してきた日本軍の銃声が聞こえたために、婦人や子供も夕闇にまぎれて逃亡、付近に身を隠した。日本軍は逃げ遅れた村民と他所から避難してきていた人など40余人を捕まえて倪安仁という村民の家に押し込めて火をつけ、焼き殺してしまった・・・日本軍は村を去る前に村落を放火していったため、村の公共の建物以外、全村80余戸は全部焼失した」(句容県誌)

だいたいこれは支那軍の清野作戦(焦土作戦)でしょう。退却するとき、日本軍に建物や食糧を使わせないようにするためのものです。

 金陵女子文理学院ミニー・ヴォートリン日記 12月6日
「UP(AP)特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容に行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村人を一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ」

 ジャーナリストの本多勝一氏は倪塘村の虐殺事件を支那人から聞き取り調査し、著書「南京への道」に載せています。この証言を検証した本、川野元雄(著)「南京『大虐殺』被害証言の検証」が今年10月に展転社から出版されています。

 倪年科少年(当時10歳)の証言
「12月4日の夕方ごろ、日本軍はむらの東端まで攻め寄せた。街村状の部落には86世帯あったが、銃声をきいた村民は部落を捨ててバラバラに逃げた」(少年は家族と近くの河の掘割に隠れる)
「暗くなるころ、部落の一角に火の手があがった。家の燃える音に犬の遠吠えや人間の叫び声が混じって凄惨な状況となったが・・・」
「倪安仁の家に、逃げおくれた住民の一部と他所から避難してきた人など四十数人がつかまって、押しこめられ、放火されて焼き殺された」

「夜が明けた。おそらく八時か九時ごろのこと、北隣りの西荊村から80人ほどの男たちが日本兵に連行されてきた・・・西荊村を中心とする周辺の男たちであった。うしろ手に縛られ数珠つなぎにされていた。一行がほぼ二本の畦道沿いに並んだところで、公路近くの池のそばにすえられた機関銃が乱射して皆殺しにした」
「部落は5日の夜さらに放火されて、86世帯のうち1世帯の三間を残すだけとなった」

 GoogleマップよりJJ太郎作成

 見てわかる通り、日本軍は3.5Km北の西荊村に寄り道して戻ってきたことになります。日本軍は急行軍で12月4日夜11時には15Km先の句容に突入しているのに12月5日の夜まで手前の村で虐殺にあけくれていたと言うのですから、辻褄が合いません。そもそも日本軍の動きを住民はある程度知っているはずで、銃声を聞いて逃げるのではなく、もっと早く逃げていたはずです。

 著者の見解では西荊村には支那軍の拠点があったと予測され、12月4日よりもう少し早い日に日本軍がやってくる情報をキャッチし、南京へ退却するため西荊村を焼き払い、村民を連れて倪塘村へ行き、村民を虐殺し、火を放って句容方面へ退却していったのであれば辻褄は合うとしています。つまり証言は支那軍の清野作戦を日本軍の仕業にすり替えているということです。本には他の事件の支那人の証言もすべて矛盾があり、支那軍の仕業として置き換えてみれば辻褄が合うことがわかる検証になっています。特に刈り取った稲や食糧のある地点を焼き払っているところなどが清野作戦の特徴です。日本軍に食糧を渡さないためです。

 しかしながら、支那軍が同胞支那人を虐殺することなんてあるの?と思われる方もいるでしょう。元自衛隊の池田整治氏によると北京の人は広東の人を同胞と思っていないし、逆もそうであるし、広東の人も出身地がことなれば同胞とも思っていないそうです。日本人からみれば同胞を叩きのめす姿は異常に移りますが、支那人にとっては同胞ではなく、叩きのめすのは何ら違和感はないわけです。こうした支那人同士の虐殺は戦前出版されていた本を紹介した西尾幹二氏の「GHQ焚書図書開封」を読んでいても出てきますが、GHQにより戦後焚書されたので、日本人は記憶喪失にされました。

 結論として、南京郊外で日本軍が大虐殺を行ったということはありません。大虐殺を行ったのは支那軍であり、支那の歴史書と証言は日本軍の仕業にすり替えていたのです。こういうデタラメを笠原十九司本多勝一らが本に書いて日本に広めていったわけです。




参考文献
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 岩波書店南京事件笠原十九司(著)
 大月書店「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」岡田良之助・伊原陽子(訳) / 笠原十九司(解説)
 朝日文庫「南京への道」本多勝一(著)
 展転社「南京『大虐殺』被害証言の検証」川野元雄(著)
 マガジンハウス「超マインドコントロール」池田整治(著)
添付画像
 日本軍将校からキャラメルを貰って嬉々と興ずる支那の子供達、(江南)1937年11月6日 日新報道「南京の実相」より

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南京の日本軍の動きでウソ証言はわかる

部隊がいないところで事件はおこらない。




 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で南京大虐殺があったといわれますが、展転社南京事件の核心 データベースによる事件の解明」冨澤繁信(著)を見ると、非常に事件の検証がしやすくなります。当時の関係者証言や記録などをデータベースに登録し、分析するのです。国際委員会の「南京安全地帯の記録」や「ヴォートリンの日記」「ラーベの日記」「南京戦史」などなど11種類の文献が登録され、事例のデータ1038件、諸相のデータ4817件があります。展転社に問い合せて、それらをアウトプットした資料「データベース『南京事件のすべて』」も入手しました。南京戦の日本軍部隊の動きもしっかりわかり、非常に便利です。部隊の動きを把握していれば、おかしい証言はわかりますし、合致していればなるほどと解ります。

 南京での日本軍の動きと反日プロパガンダ本「戦場の街南京 松村伍長の手紙と程瑞芳日記」松岡環(編著)の中の記載をいくつか付き合わせてみます。

 元兵士・亀田徳一の証言 第十六師団歩兵第三十三連隊第二大隊 12月14日
「年寄りも男も女も子供もいっしょくたにして3,4百人ぐらい捕まえてきたんですわ。太平門の外から言うと、門の右の一角に工兵が杭を打って、それから鉄条網を張っていて、そこへこれらの支那人を入れて囲ってしまいました。その下には地雷が埋めてありましたんや。日本兵が踏まないように白い紙に『地雷』と書いてありました。そこへ捕まえてきた人を集めてきて地雷を引いてドンと爆発させましたんや」

データベースによると第33連隊第2大隊は下関門(邑(手へん付)江門)から入城し、掃討戦を開始しています。北東部一帯を掃討し、獅子山付近で敗残兵150名と戦闘後、中山路を通り市政府の建物まで来てそこに宿営しています。太平門には行っていません。大平門は第9連隊の掃討地区です。詳細を「南京戦史」と付き合わせてみましたが、第二大隊が大平門を通過したのは13日のことで城外です。敵影は見えなかったとなっています。そして下関(シャーカン)に向かうように師団命令が出ています。この証言は明らかにおかしいです。

 程瑞芳日記(金陵女子文理学院教師) 12月13日(日本軍が南京に入城した初日)
「十数人の兵隊が召力(二つで1文字)さんの家の後ろに立っていた。作業員たちは驚き慌てた。日本兵は裏の鶏を飼っているところにやって来て鶏をほしいと言った。作業員は華小姐(女学院責任者ヴォートリン)を探して呼んできた。華小姐は日本兵らに向かって食べることはできないと言った」

これは第47連隊が学院の近く五台山を掃討したときのことと合致します。「ヴォートリン日記」にもこの記載があります。ヴォートリンは「礼儀をわきまえた兵士」と書いています。

 程瑞芳日記の13日続き
「今夜、学校に駆け込んできた人は少なくない。日本兵が彼らの家にやってきて、出て行けといったからだ。日本兵達も眠らなくてはならない。これらの駆け込んで来た人達は、みな手に何も持っていない。夜具は日本兵が使うので、この人達はただ驚いてそのまま飛び出してきたのだ。これは全て安全区内のできごとだ」

この証言では第47連隊が安全区内の民家に宿営したことになってしまいます。これはありえません。連隊は城外に宿営しています。収容所に入りたいがための支那人の方便です。もしかしたら、日本兵が夜具の徴発を交渉しようとして、言葉が通じず怖かったので逃げてきただけの話かもしれません。

 元兵士・出口権次郎の証言 第33連隊第3大隊
「南京陥落の日じゃった。城内に入る時、城壁の外側が死体の山じゃった。足下がフワフワするんでマッチをつけて見たら、筵を敷いたように一面に死体がぎっしりじゃった。ずーと死んどったんじゃ。どの部隊がやったかは知らんが、突き殺したんやな。兵隊やなしに、女も子どももおった。爺さんも婆さんもおった、兵隊やないもんばっかりじゃ。新聞でよう言う“南京の虐殺”って、全く本当のことじゃが、そんなこと言えんもんで、『嘘』や言うとるんじゃ」

南京陥落の日というと13日ですから、その夜の話となります。第33連隊は下関(シャーカン)に宿営していますが、その日は城内に入っていません。邑江門は閉ざされてました。翌日、第2大隊が入城しています。第3大隊は入城していません。邑江門では戦闘はありません。大量の死体があったというのは城門の内側のところで、支那の督戦隊が城外へ脱出しようとする支那兵を大量殺戮したものです。民間人が含まれていたというならそれも督戦隊の仕業です。日本軍は関係ありません。

 まだ多くありますが、きりがありませんので、このへんにしておきます。




参考文献
 展転社南京事件の核心 データベースによる事件の解明」冨澤繁信(著)
 展転社「データベース『南京事件のすべて』」冨澤繁信(制作)
 社会評論社「戦場の街南京 松村伍長の手紙と程瑞芳日記」松岡環(編著)
 社会評論社「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言」松岡環(編著)
 大月書店「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」岡田良之助・伊原陽子(訳) / 笠原十九司(解説)
添付画像
 総攻撃前、砲を担ぎ車輪を背負い、じりじりと南京城にせまる日本の部隊(1937年12月9日撮影)(PD)

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