ルック・イースト政策から30年

日本なかりせば。




 「ルック・イースト政策」というのは昭和56年(1981年)にマレーシアのマハティール首相(当時)が提唱した政策で日本型の集団主義と勤労倫理を学び過度の西洋型個人主義を見直すというものです。そしてマハティール首相は平成2年(1990年)に日本主導のEAEC(東アジア経済会議)構想を打ち出しました。これはアメリカの反発を買い、アメリカの顔色をうかがう日本は積極的にはなれませんでした。

 平成4年(1992年)10/14 香港にて マレーシア マハティール首相のスピーチの一部
「東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、自分たちも他の世界各国も驚くような成功を遂げた。東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、実際にそれを証明してみせた。
 もし、日本なかりせば、世界はまったく違う様相を呈していたであろう。富める国はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。北側のヨーロッパは、永遠に世界を支配したことだろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、スズを掘り、それを富める工業国の言い値で売り続けていたであろう」

 「日本なかりせば」演説と呼ばれるものです。なんとも日本人には嬉しい話しではありませんか。

 「ルック・イースト政策」から30年がたちました。今年10月31日の読売新聞朝刊によるとマレーシアの「日本流」は岐路にきているといいます。既にマレーシア経済は国民一人あたりのGDPは1万ドルに達し、30年前の6倍になりました。「1990年代のバブル崩壊以降、経済低迷から抜け出せない日本に学ぶ点はない」「官僚が主導してきた日本型の経済運営システムは、我々のモデルとして適切ではないことが分かった」「日本から学べる点として挙げるのは『先端技術のみ』」という厳しい声も上がっていると報じています。

 マハティール首相は日本はもはや「反面教師」と言ったこともありましたが、10年ほど前「立ち上がれ日本人」という本を書いています。マハティール首相は日本の何に注目したのか、もう一度見てみたいと思います。

「私が初めて日本を訪れたのは1961年、家族旅行のことでした。当時の日本は復興途上で、あちらこちらに爆弾による破壊の跡が残されていました。それでも、大阪では水田の真ん中に立つ松下の工場が私の度肝を抜き・・・私は日本と日本人のダイナミズムを体感したのです」
「もっとも注目したのは、職業倫理と職場での規律正しさによって、品質の高い製品を作り上げるという姿勢でした」

マハティール首相は日本の工場で見た制服と胸の名札をすべての役所に導入しました。日本のジャーナリストがマハティール首相を訪ねて、執務室に入ると望遠鏡が置いてあるので「星をみるのですか?」と聞くと、首相は「みんながきちんと働いているか見ているんだ。働いていなければ、この電話でハッパをかける」と冗談を飛ばしたといいます。これを聞いていた側近が後に「あれって冗談に聞こえないよね。首相ならやりかねない」と苦笑しました。日本人の「勤勉さ」にマハティール首相は大いに注目したのです。

「日本型の大企業のシステムは、欧米の会社のシステムと随分違っていました。会社同士は競争しても、会社は社員の面倒を見る。終身雇用という形態は、西側諸国にはないものでした。社内で従業員による混乱は少なく、労働組合によるデモも就業時間外に行われたため、生産活動には支障を来たさなかったのです」

日本型企業というのは西洋のように経営者と従業員という対立軸があるわけではなく、企業自体が「村社会」を形成しています。単位共同体のようなものです。これにマハティール首相は注目したのでした。

 マハティール首相は日本の近代史も評価しています。
明治維新は日本にとって大きな転換点でした・・・多くの日本人が当時、産業技術を習得するため欧州に送り込まれました。日本は瞬く間に欧州と同じレベルの産業の技術と、商いの方法を身につけました。さらには日本を統治しようとする欧州人の試みすら、1905年、近代化された海軍によってロシア軍を決定的に打ち負かすことで見事に粉砕してしまったのです」
「その時、日本は東アジアから尊敬される存在となりました・・・東アジアの人々は日本の近代化を見習おうと努力を始め・・・さらに太平洋戦争の初期段階における日本陸軍の成功は、それまで無敵と思われてきた欧州の軍事力の魔法を解くことになりました。東アジアは、彼らの『欧州の君主』も敗北することがあると認識しました。それが、彼らの独立に対する切望の念を強くしたのです」

 マハティール首相は日本の伝統的美徳である「勤勉さ」や個人の利益より集団の利益を優先する姿勢、歴史的にひたむきに近代化の努力を行い、戦争で廃墟になりながらも経済大国として復活した日本を高く評価し、ルック・イースト政策を実行してきたのでした。そしてマハティール首相は日本人にエールを送っています。我々日本人はしっかり受け止めましょう。

「いまのところ日本は、私たち東アジアの国々から生まれた唯一の先進国です。そして、富める国には隣人に対してリーダーシップを発揮する義務があります。潜在的な大国である中国をうまく御しながら、その責務を果たせるのは西側諸国ではありません。それは、東アジアの一員たる日本にしかできない役目なのです。
 いつまでも立ち止まっている余裕はありません。それは日本にとっても、東アジアにとっても、世界にとっても、大いなる損失でしかないのです。最後にはっきりと申し上げたい。日本人よ、いまこそ立ち上がれ − と」




参考文献
 新潮社「立ち上がれ日本人」マハティール・モハマド(著) / 加藤暁子(訳)
 小学館「アジア人と日本人」大前研一(著)
 読売新聞 平成24年10月31日朝刊「マレーシア『日本流』岐路」
添付写真
 マハティール・ビン・モハマド(PD)

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南京虐殺プロパガンダ本にご用心

日本人による中共のためのプロパガンダ




 昭和12年(1937年)12月、支那事変南京戦で南京大虐殺があったといわれ、それを裏付ける日本兵の証言がよく取り上げられてきました。10年ほど前に出版された「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言」もデッチあげ本として有名で、これは虐殺肯定派さえ「信憑性を疑う」としています。著者の松岡環氏(女性)は批判されたリベンジのつもりなのか「戦場の街南京 松村伍長の手紙と程瑞芳日記」という本を平成21年(2009年)に出しています。

 こっちのほうは陣中日記、程瑞芳日記の記載があり、まだ資料として使える部分もあるのでマシなほうですが、他はモロにでっち上げのプロパガンダです。ちょっとパラパラとめくってみました。

 松村氏証言
「南京城内に入ると、城壁のすぐ側の壁やったかなあ。『忠孝仁愛忠義和平』という文字が大書してありました。その時はなあ、難民区に入って行って男と言う男をオイッオイッと指差して引っ張り出すんです。面や目つきの悪いのは兵隊ということですな」

松村氏は「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言」では「町田」という仮名で登場しています。第33連隊の第三大隊です。ここでは難民収容所に入ったと書いていますが、安全区と言われるところに入ったとは書いていません。安全区は外国人が組織する国際委員会が管理しており、12月24日までは第7連隊しか中に入れませんでした。第33連隊が中に入ったとは考えられません。同中隊の長谷川悌三という人の陣中日記もあります。

 12月14日
「各国の大公使館は自動車に各国の国旗を書いて自国の権益保護だなんて日本のアラを探して居る 難民区には軍隊が立ち入らぬ約束があったが 敵兵の軍服が山と積んであったので掃打に行った」

安全区に入った?と言っていますが、再度言うと第7連隊の持ち場で、歩哨もたっており、他の部隊は立ち入れません。そもそも第三大隊は城内掃討戦に参加していません。第二大隊だけです。陣中日記は後で書くものがほとんどなので、他の部隊の話も記載していたりします。

 本には豊田八郎氏の陣中日記も取り上げています。

 12月14日
「午前六時起床 七時半整列 十時場内掃蕩の為入城 直に掃蕩す 第一分隊第一回の負残兵十名を殺す 一日に第一分隊で殺した数 五十五名 小隊で二百五十名 午後六時終わり 午後十一時宿舎へ帰る 完全に南京陥落す」

こうした記録も聞き取りでは「そやけどこれはうちの中隊やなく、よその中隊やなうん。一日に第一分隊で殺した数、五十五名。第一分隊?わしの分隊やな」という答えが返ってきており、もう他部隊のことを書いたのか自部隊のことなのか記憶もあやふやごっちゃになっているということです。

 「戦場の街南京」には金陵女子文理学院の程瑞芳という教師の日記も載せています。ちょっと拾ってみます。
12月20日
「今日もたくさんの難民が来た。二百号(文学館)の三階までぎっしり埋まっている。おそらく憲兵が保護していると思って避難してきたと思うが、憲兵も女の子を庭に引きずり出して強姦する。彼らは人間じゃない。場所を問わないでやる。畜生だ。今日の昼、兵隊が来て二人の女の子を連れて行く時、彼女達の物まで奪って行った。ちょうどその時、ある長官が見学に来ていて、華小姐(女学院責任者ヴォートリン女史)が長官に部下たちの行動を見せ付けると、とてもまずい顔を見せたが、それはどうでもいいことだと思っているに違いない。中国人は彼らの仇だ」

では、華小姐(女学院責任者ヴォートリン女史)は日記に20日のことはどう書いているかというと、

「三時に日本軍の高級将校が部下数人を伴ってやってきた・・・視察を私たちが終わったとき、果たせるかな、北西の寄宿舎の使用人がやってきて、日本兵二人が寄宿舎から女性5人を連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。大急ぎで行ってみると、彼らはわたしたちの姿を見て逃げ出した・・・やっとのことで一人を引き止め、例の将校がやってくるまで時間を稼いだ。将校は兵士を叱責したうえで放免した」

やや食い違いが見られます。ヴォートリンは物を奪ったとは書いていません。おそらく差し障りのない物だったのでしょう。程瑞芳の「長官」といっているのが高級将校のようです。憲兵の強姦などヴォートリンの日記には出てきません。前の日の19日に両者とも強姦を目撃していますが、被害女性が助けや訴えを行った形跡がなく、お金を払った上の合意の可能性があります。これが強姦事件だとしてもヴォートリンが見た強姦事件はこの1件だけです。ところが、「戦場の街南京」では「日記の筆者程瑞芳は、ミニー・ヴォートリンとともに金陵女子文理学院で目撃した日本軍の暴行を毎日日記に記している」としているのです。毎日目撃など書いていません。伝聞だけです。ヤレヤレなプロパガンダ本です。




参考文献
 社会評論社「戦場の街南京 松村伍長の手紙と程瑞芳日記」松岡環(編著)
 社会評論社「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言」松岡環(編著)
 展転社南京事件の核心 データベースによる事件の解明」冨澤繁信(著)
 展転社「データベース『南京事件のすべて』」冨澤繁信(制作)
 大月書店「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」岡田良之助・伊原陽子(訳) / 笠原十九司(解説)
添付画像
 胡弓に聞き入る日本兵日新報道「南京の実相」より

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映画 南京の真実 記録映画編(南京陥落後)
http://www.youtube.com/watch?v=AAJhJnYH7yU

南京虐殺のデッチあげ証言にご用心

お年寄りは記憶もあやふやで、あることないことしゃべるもの。




 昭和12年(1937年)12月、支那事変南京戦で南京大虐殺があったといわれ、それとわかる日本兵の証言がよく取り上げられてきましたが、証言というのは裏取りしなければ犯罪の立証には使えません。東史郎の「わが南京プラトーン」という著書など郵便袋に支那人を入れ火をつけ手榴弾をくくりつけて殺害したなどデッチ上げたのは有名な話です。

 10年ほど前に出版された「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言」もデッチ上げ本として有名で、これは虐殺肯定派さえ「信憑性を疑う」としており、著者の松岡環氏(女性)は性懲りもなく「戦場の街 南京」という本を平成21年(2009年)に出しています。こっちのほうは陣中日記と程瑞芳日記の記載があり、まだ資料として使える部分もあるのでマシなほうですが、他はモロにでっち上げのプロパガンダです。

 どんなものかと「元兵士102人の証言」を入手し、パラパラと見ていましたところ、金陵女子文理学院に関する記載がありました。これなら素人の私でも「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」と比較できます。ミニー・ヴォートリン女史は南京戦のとき金陵女子文理学院で難民を受け入れていた責任者です。

 歩兵第33連隊第2大隊 井上益男(仮名)
「紫金山から降りて、三、四時間歩いて、九師団の脇坂部隊が入った光華門の隣、中山門から南京城に入った。南京陥落当日(13日)だと思う」

第33連隊第二大隊は邑(手へん付)江門から南京城へ入りました。しかも14日のことです。中山門は紫金山のすぐ近くです。三、四時間歩いたのですから、邑江門です。

「南京陥落後、金陵女子大の警備に入った」

金陵女子大は金陵女子文理学院のことで、国際委員会が管理する安全区の中にあります。ここは12月13日の陥落から12月24日まで第7連隊の受け持ちで、24日以降は第38連隊の受け持ちですから、第33連隊は中に入れません。ちょっと考えにくい話です。

「女子大は女の人の避難所や。そこに日本の将校たちがよく来て『ちょっと入るで』と言って、女子大の構内に入って行っては女の子を連れて出て行った」
「あの人ら(将校)はトラックできた。昼間はあまり来ない。1日だいたい2、3台来るな。将校を含め兵隊4,5人で来て3人は銃を持っている」「1日5,6台来る時もある。1台に20人ぐらいの女の子を乗せて連れて行くこともあり、嫌がって泣く子もいた」

ヴォートリンはシナ人が収容所に入れてほしいため日本兵の暴行にあったというウソ話を信じており、日本兵の出現にはピリピリしていました。ですから、事件があれば必ず記載があるはずです。しかし、「ヴォートリンの日記」には頻繁に日本軍将校が女性を連れ出したという記載はありません。連れ去られたとする記載は17日に使役のための12人の徴用と思われる記載(ヴォートリンは女性が連れ去られたと誤解。程瑞芳日記には翌日11名が帰ってきたと記載)があります。12月24日に慰安婦の募集がありますが、ヴォートリン、程瑞芳立会いのもと21人が自主的に応募しています。

 まったく井上益男という人はデタラメなことを言っています。これは証言当時は83歳という高齢で色々な記憶が混ざってしまったためと思われます。第33連隊は12月24日から安全区の南側が担当地区となっています。天野中隊長事件という軍紀を乱す事件がありましたが、それらや色々な噂や炊事や洗濯の使役のため募集した女性がトラックに乗っているのを見たりして、歳とともにごっちゃになってしまったのでしょう。こういうのは聞き取る側が記憶を整理できるような形で聞き出さなければならないのですが、松岡環氏は反日プロパガンダ証言が欲しいのでそれをやっておらず、自分が求める方向に証言を誘導していったのでしょう。近現代史研究家の阿羅 健一によると歩兵第33連隊第5中隊の第1小隊長だった市川治平さんは歩33の生き字引とも言われているのに、松岡環氏は取材にこなかったといいます。市川氏は「102人の証言」を読んで、次のように述べています。

「本当にばかばかしい本です。私のところに聞き取りには来ませんでしたが、元気なり二人の戦友に尋ねたら、二人にも来なかったと言っています。まともな話をする人には行かないようです。確かに予備役には悪い事をする人もいましたが、この本をざっと読んだところ、強姦などの話は、創作8割、本当2割 でしょう」

 こういったバカばなしを朝日新聞毎日新聞テレビ朝日がとりあげていたのですから、困ったものです。今はネット言論が嘘を暴露するので、以前ほどではないでしょうが、デッチ上げ証言には注意したいものです。




参考文献
 明成社「再審『南京大虐殺』 世界に訴える日本の冤罪」竹本忠雄・大原康男(共著)
 社会評論社「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言」松岡環(編著)
 展転社南京事件の核心 データベースによる事件の解明」冨澤繁信(著)
 大月書店「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」岡田良之助・伊原陽子(訳) / 笠原十九司(解説)
 展転社「データベース『南京事件のすべて』」冨澤繁信(制作)
参考サイト
 「南京戦・元兵士102人の証言」のデタラメさ(「正論」平成14(2002)年11月号より転載)
  http://www.history.gr.jp/~nanking/books_seiron0211.html
添付画像
 南京総攻撃に待機する日本兵は焚火を囲んで悠々新聞を読む(1937年12月9日撮影)(PD)

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なぜ、「南京事件」は捏造されたのか?
http://www.youtube.com/watch?v=9jWIHnks7uo

夏淑琴さん事件の真犯人は誰か

真犯人は支那の便衣隊だ!




 夏淑琴(か・しゆくきん)さん事件というのは昭和12年(1937年)12月13日、支那事変南京戦で、日本軍が南京を陥落させ、城内に進入したとき、夏さん一家と家主一家13名のうち11名を殺害したとする事件です。生き残った夏さんは事件から2週間後に近所の老婦人が見つけて、難民を受け入れている安全区を管理する国際委員会のマギー牧師がフィルムにおさめたというものです。この事件はマギーの東京裁判の証言、国際委員会の委員長のラーベの日記から推測すると翌年1月14日あたりで発生した事件と考えられます。夏さんの家の家主がイスラム教徒で夏さん一家もイスラム教徒だった可能性が高く、当時8歳の夏さんがマギーの聞き取りに対して旧暦で12月13日と答えた考えられます。

 事件が1月14日あたりで起こったとすると、犯人が日本兵である可能性はかなり低くなります。というのは1月1日には自治委員会が発足しており、安全区にいる難民に帰宅するよう促しているからです。事件現場は安全区の外でおこっていますから、そのような事件を起こしてしまえば難民は自宅に帰りにくくなり、日本側の思惑は外れてしまうからです。

 犯人が日本兵でないとすると、他に武装した集団といえば、安全区に隠れている支那の便衣隊が考えられます。かれらは武器を隠し持っており、攪乱工作を展開していました。

 ニューヨーク・タイムズ 1月4日付
「元支那軍将校が避難民の中に」「大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」
「南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校6名を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。・・・この元将校たちは、南京で略奪したことと、ある晩などは難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」

 12月28日時点で支那軍の将校23名と下士官54名、兵卒1498名が摘発されています。これ以降、安全区の記録では犯罪事件が激減しています。しかし、全部が摘発されたというわけではなく、国際委員会のラーベ委員長がかくまっていた2名の大佐は健在でした。

 冨澤繁信(著)「データベースによる事件の解明 南京事件の核心」では安全区の記録を統計グラフ化しており、これを見ていると12月17日に事件は30件を超えていたものが29日にはゼロになっています。以降事件が多い日は1月1日、1月9日、1月20日となっており、1月28日から急増し、29日には55件となっています。1月1日は自治委員会が発足しています。1月9日ごろは国際委員会と自治委員会が激しく対立した頃になります。29日以降に事件が急増したのは28日から日本軍の天谷支隊が強力に帰宅推進運動を行ったからです。こうした流れの中で残っている支那の便衣隊が攪乱工作を行った可能性は高いです。

 安全区の記録 第186件
「1月9日午後三時頃、ミルズ氏とスミス博士が、○○へ出かけた。その辺の様子を見て、市の西南部に住民が帰れる状態かどうか知りたいと思ったのである。そこへ着いたところ、赤ん坊を抱いた一人の婦人が、今しがた三人の日本兵に強姦されたところであった」

国際委員会のメンバーが視察にいく絶妙のタイミングで事件がおこっています。こうした攪乱工作の中で夏さん一家が被害を受けた可能性は大いにあります。

 第190件
「1月14日、ある一家が金陵大学附属中学から帰宅した。彼らは途中で新しい登録証を入手したが、それを門にはっておけば兵隊に困らされることもないと言うことだった。そうしたところ、三時間とたたないうちに日本兵三名が来て男たちを追い出して、婦人たちを五度も強姦した。そんなわけで、彼らが1月15日に中学へ戻って来て住んでいる」

これも市民に帰宅を促している日本側を攪乱している工作と見れます。「日本兵」の仕業としているいのは、そういえば収容所に戻りやすかったためと思われます。もしくは便衣隊が変装していたのかもしれません。

 ラーベの日記を見るとなぜか1月14日が抜けています。マイアー社長宛の手紙が載っているだけです。なぜ日記がないのか?

 2月4日、日本軍は難民区の強制撤去を通告。これにより安全区の記録では事件が激減し、8日にはゼロになっています。攪乱工作は終了したということです。

 ラーベ日記 2月15日
「昨晩、龍と周の二人がわが家を去った。今日発つという。どうやって家に帰るのかは知らない。計画を打ち明けられなかったし、こちらも聞かなかった。残念ながら我々の友情にはひびが入った。二人が無事香港に戻れるよう祈る。けれどもまた会いたいとは思わない」

龍と周は支那軍の大佐です。ラーベはなぜ「友情にひびがはいった」と書いたのか。彼らが攪乱工作を行っていたことを知ったからではないでしょうか。




参考文献
 展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)
 展転社「データベースによる事件の解明 南京事件の核心」冨澤繁信(著)
 河出書房新社日中戦争資料<9>」洞富雄(編)
 講談社文庫「南京の真実ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
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 自治委員会の誕生1月 日新報道「南京の実相」より

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夏淑琴さん事件は12月13日に発生したのではなかった

反日プロパガンダに使われている夏淑琴さん事件は再検証すべき。




 夏淑琴(か・しゆくきん)さん事件というのは昭和12年(1937年)12月13日、支那事変南京戦で、日本軍が南京を陥落させ、城内に進入したとき、夏さん一家と家主一家13名のうち11名を殺害したとする事件です。8歳の夏さんと4歳の妹が2週間生き延び、近所の近所の老女が発見しました。これらを外国人が組織する国際委員会が聞き取りし、マギー牧師が写真を撮りました。マギー牧師はこのときのことを東京裁判で次のように述べています。

1月の終り頃になりまして、私は南市の方へ参りまして沢山の街で色々な事件が起ったのを承知したのでありますが、其の中で特に私の申し上げようと思いますのは、新開路六番地の家で起った事件であります」

サトン検察官「それは何年のことですか」

マギー「1938年のことであります。(中略) 私は新開路六番地の家へ連れて行かれて見せられたのでありますが、それは案内したのは非常に年を取った母方の祖母さんでありましたが、そこでは多数の中国人の子供が死んだと云ふ話でありました。其の家に十三人の人が住んで居ったのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります」

 マギー牧師の証言では1月の終わりに発見されたとなっています。フォスター文書にマギーが聞いた惨劇が1月25日付で書かれています。国際委員会の委員長ラーベの日記の1月29日に以下の通り書かれています。
「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。親族は11人だったというが、残らず残忍な殺され方をしていた。近所の日ちびとに助け出されるまでの14日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという」

 夏さんの証言には事件が起こってから発見されるまで「1週間」(南京大虐殺と原爆)というのもあります。1週間から2週間だとすると、フォスター文書の日付から逆算すると事件は1月11日から1月18日の間に発生したと考えられます。しかし、安全区の記録にも事件は12月13日と書かれています。

第219件「ジョン・マギー氏のきくところでは、12月13日から14日にかけて城南に住む一家の13人のうち11人が日本兵に殺され、婦人たちは強姦され、手足を切断されたとのことである。生き残った小さな子供が話してくれたのである」

 英記者ティンパーリの著「戦争とは何か」では「1938年1月14日から2月9日にいたる暴行事件の報告」に記載されています。いったいこれはどういうことか?マギーが撮影した写真のマギーによる解説をみるとこの謎が解けてきました。

「12月13日、約30人の兵士が南京の東南部の新路口五のシナ人の家にきて、中に入れるよう要求した。
 玄関を、マアという名のイスラム教徒の家主が開けた。すると、ただちに彼らはマアを拳銃で殺した上・・・(中略) その八歳の少女は傷を負った後、母の死体のある隣の部屋に這って行った。無傷で逃げおおせた四歳の妹と一緒に、この子はここに十四日間居残った」「写真撮影者の私が、この話の一部を得ることができたのは、上の八歳の少女からで、詳細は一人の隣人と一人の親戚から語ってもらって、確認と訂正ができた」

イスラム教徒は旧暦を使います。家主がイスラム教徒だったということは夏さん一家もイスラム教徒であり、集まって暮らしていた可能性が高いです。それで8歳の夏さんは旧暦で「12月13日」と答えたわけです。ネットの変換ツールを使うと旧暦の12月13日は新暦の1月14日にあたります。マギーもこのことには気づかなかったようで、事件が起こって発見されるまで2週間と自分が言っておきながら、東京裁判では「私が行ったときは事件が起ってから約6週間後」と計算し直して答えています。

 マギーが事情聴取した「一人の隣人」というのは哈夢鶴さん(当時12歳)らの一家のことと思われます。家主一家であり、夏さんの隣の部屋住んでいました。哈さんの証言があります。(南京大虐殺と原爆)

「日本軍が攻めて来るという知らせが入ったので、一週間ほど前に父と二番目の叔父と相談して、避難した方がいいのではないかということになり、南京から10キロ半れた沙州于(てへん)に避難しました。農暦(旧暦のこと)の19日だと記憶しています」
「それからだいたい一週間ぐらい、近所に住んでいた人に出会うと、『門東(中華門の東)でたくさんの人が死んでいるよ』と聞かされました。」「家に帰ってすぐ中を見ていると十一人が既に死んでいました」

 農暦の12月19日は新暦の1月20日になります。それから約一週間程で夏さんらを発見したのであれば、マギー証言とほぼ合致します。農暦の19日が11月だとすると新暦の12月21日になり、事件発見は一週間後の12月28日となり、死体を片付け葬儀をしたと言っているのですから、マギーは新暦の1月に事件現場を見ることはできません。新暦の12月21日あるいは新暦の1月20日に「日本軍が攻めてくるから避難」というのはおかしく、哈さんが沙州于から城内に戻り安全区に入ったのが新暦1月20日だった思われます。

 事件が昭和13年(1938年)1月14日あたりに発生したとすると、このころは自治委員会もたちあがり、日本軍は第33連隊が城内にいただけです。12月13日の状況とは全く違います。武装集団は第33連隊のほか支那の便衣隊が潜んでおり、攪乱工作を行っていました。これらのことを調べないといけないでしょう。




参考文献
 河出書房新社日中戦争資料<8>」洞富雄(編)
 展転社「『南京虐殺』への大疑問」松村俊夫(著)
 岩波書店南京難民区の百日」笠原十九司(著)
 草思社南京事件 証拠写真を検証する」東中野修道小林進・福永慎次郎(著)
 講談社文庫「南京の真実ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 河出書房新社日中戦争資料<9>」洞富雄(編)
 展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)
 東方出版南京大虐殺と原爆」戦争犠牲者を心に刻む会(編)
添付画像
 夏さん事件の現場 「南京、マギーフィルム3」 より http://www.youtube.com/watch?v=iUIZbCrPBbo

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夏淑琴さん事件の怪

日本軍の仕業であれば、おかしな事件。




 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で13日に日本軍が南京城内へ入り掃討戦を開始しました。このとき、日本兵に家族らをレイプされ、殺害されたとして、生き残った当時8歳の夏淑琴(か・しゆくきん)さんが証言しています。この話に疑問を持った亜細亜大学教授の東中野修道氏が疑問を著書に書いたところ、夏さんから名誉毀損で訴えられ敗訴しています。

 事件に関するマギー牧師の説明文
「12月13日、約三十人の兵士が南京の東南部の新路口五のシナ人の家にきて、中に入れるよう要求した。
 玄関を、マアという名のイスラム教徒が開けた。すると、ただちに彼らはマアを拳銃で殺した上、もう誰も殺さないでと、マアの死体に跪いて頼むシアさんをも殺した。なぜ夫を殺したのかとマアの妻が尋ねると、彼らはマアの妻をも殺した。
 シアの妻は一歳の赤ん坊と客間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。そして、一人かもっと多くの男たちから裸にされ、強姦された後、銃剣で胸を刺されて殺された。その上、陰部に瓶を突っ込まれ、赤子も銃剣で殺された。(中略) それから二人の少女が裸にされた。上の少女は二、三人に強姦され、下の少女は三人に強姦された。その後、上の少女は刺されて陰部に茎を詰め込まれた。下の少女も銃剣で突き刺されたが、母や姉の受けたぞっとするような扱いは免れた。(中略) その八歳の少女は傷を負った後、母の死体のあるとなりの部屋に這って行った。無傷で逃げおおせた四歳の妹と一緒に、この子はここに14日間居残った。この二人の子供はふかした米を食べて生きた」

 夏さんは12月27日に老女性に発見され、救出されました。事件の時刻ですが、本多勝一氏の「南京への道」で、夏さんへの取材により事件は「9時ごろ」だったという証言が得られています。よくこのことでネット上で日本軍はまだ現場に到達しておらず、犯行は不可能だったという主張がみられます。事件は中華門付近ですから、この地域は第6師団第19、23、47、13連隊、第114師団となります。データベース「南京事件のすべて」で調べてみます。

「歩19は10時頃光華門より城内に進入、東南部を掃討、通済門西側地区に兵力を集結した。(南京戦史)
「13日歩13は午前7時工兵隊が仮設した橋を渡って城内に侵入」(鵜飼6D通信小隊)
「歩47も13日午前中に約一個大隊を城内へいれて、掃討を始めた」(熊本兵団戦史中巻)
「6師団歩47の攻撃目標は中華門とその西、10時ごろ一個大隊を城内に進入。夕刻主力は三里店附近に集結」(6D戦時旬報)
「歩23は13日8時城壁西南角を突破城内に進入、14時30分清涼山に達した。Ⅲ(大隊)は城壁に沿い、Ⅱはその東を北進、水西門を攻撃」(南京戦史)

 第114師団の入城時刻は不明ですが、夕刻まで中華路以東の掃討を完了(南京戦史)しています。日本軍は早くから中華門付近に進入しており、充分犯行は可能です。しかし、掃討戦の初っ端で敵がどこにいるかわからない状況で一々民家に入り込んで強姦や殺人をやるでしょうか。死体の性器に瓶や棒を突っ込んでいますが、これは通州事件に見られた通り、支那人の虐殺でよく見られるものです。

 これらはずっと疑問でしたが、松村俊夫氏の「南京虐殺への疑問」を読んで大きなことを見落としていることに気づきました。米国大使館フォースター書記がマギーが聞き取りした内容を文書に記していますが、女性の局部に棒が突っ込まれているのをみて、ドイツ大使館の大の日本嫌いであるローゼン書記官が「あれが、日本兵のやり方さ」と言ったと書いています。夏さんが発見された12月27日の現場にローゼンが居たというのです。念のためラーベの日記を読み返したところ、ローゼンは南京陥落前に脱出し、翌年1月9日に南京に戻ってきています。12月27日には南京にいなかったのです。

 さらに、ラーベ日記の1月29日に以下の通り書かれています。
「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。親族は11人だったというが、残らず残忍な殺され方をしていた。近所の日ちびとに助け出されるまでの14日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという」

 念のため安全区の記録で夏さん事件を著した第219件の前後を確認すると、第218件が1月31日、第220件が1月30日の出来事を記しています。ラーベ日記の29日が当日に記録したものだとすると事件は1月15日あたりで発生したことになります。12月13日ではなかったのです。




参考文献
 展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)
 展転社「『南京虐殺』への大疑問」松村俊夫(著)
 朝日文庫「南京への道」本多勝一(著)
 展転社南京事件の核心」冨澤信繁(著)
 データーベース「南京事件のすべて」冨澤信繁(制作)
 講談社文庫「南京の真実ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 河出書房新社日中戦争資料<9>」洞富雄(編)
添付画像
 南京で日本軍に捕獲された中国軍軍旗(昭和12年12月14日)(PD)

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江戸時代は裸を見られてもへっちゃらだった?

裸を見られて恥ずかしいと思うのはアダムとイヴ観。




 幕末に来日したドイツ考古学者シュリーマン(慶応元年 1865年来日)は公衆浴場の前を通ると、男女ともに同じ湯に入っているのを見かけます。ドイツ語は名詞に「男性形」「女性形」「中性形」がありますが、日本語にはないので、日常でも実践されていると感じます。そして「なんと清らかな素朴さだろう!」と叫びます。すると驚いたことにシュリーマンが持っていた時計の鎖についていた紅珊瑚の飾りを間近に見ようと素っ裸の日本人たちが飛び出してきたのです。

 エルギン卿使節団のオズボーン 安政5年(1858年)来日 江戸郊外にて
「五時、すべての者が湯を使っていた。“清潔第一、つつしみは二の次”というのが彼らのモットーであるらしい。ある場合には、風呂桶は戸口の外に置かれていた。・・・桶が一回の部屋(土間)におかれている場合もあったが、なにしろ戸は開けっ放しなので、美しきイヴたちが浴槽から踏み出し、たぶん湯気を立てて泣きわめいている赤子を前に抱いて、われわれを見ようとかけ出してくるそのやりかたには、少々ぞっとさせられた」

女性が素っ裸で外人を見ようと駆け出してくるのですから、ギョッとします。

 フランス海軍士官スエンソン (慶応2年 1866年来日)
「日本人の家庭生活はほとんどいつでも戸を広げたままで展開される。寒さのために家中締め切らざるを得ないときは除いて、戸も窓も、風通しを良くするために全開される」
「鏡台の前に座って肌を脱ぎ胸をはだけて細部に至るまで念入りに化粧をしている女たちにもいえる。全神経を集中させてしている化粧から一瞬目をそらせ、たまたま視線が通りすがりの西洋人の探るような目に出会ったとしても、頬を染めたりすることはない」

銭湯は外から丸見え、しかも男女混浴、女性は裸を見られてもへっちゃらだったわけです。

 スイス公使のアンベール(文久3年 1863年来日)
「夏の間、百姓や漁師や労働者はほとんど真っ裸で歩いている。そして、こうした階級の女はスカートだけを残している」

農村や漁村では男は褌一丁、女は腰巻一つだったわけです。

 江戸時代、銭湯は混浴が当たり前で、これは燃料費の節約が理由でした。老中・松平定信寛政の改革1787年〜1793年)で混浴は禁止となり、洗い場を仕切ったりしましたが、松平定信が失脚すると混浴が復活しました。水野忠邦天保の改革1830年〜1843年)でも混浴は禁止となり、忠邦が失脚すると混浴は復活しました。幕末には混浴ですから、外国人は驚くわけです。

 考えてみれば、それが「当たり前」ならなんということもなく、混浴でも女性に触れようとする不心得ものが横行することはなかったようです。現在、我々の羞恥心というのは明治維新以降の西洋的価値観、アダムとイヴの価値観が浸透して定着していったと考えられます。明治以降、混浴を禁止したのは西洋的価値観にあわせないと「野蛮人」と見られることを憂慮したためでしょう。

 明治になってフランス人の画家、漫画家ビゴー(明治15年 1882年来日)の画集「1897年の日本」(明治30年刊)を見ると一家が温泉で入浴している絵があります。舅、姑、夫、嫁、子供が一緒にお風呂に入っているのです。現代で義父に嫁が裸を見せるなど考えられませんが、明治にはいってもしばらくはこういう状態だったことがわかります。赤ん坊に授乳するのを人に見られるのもへっちゃらでした。これが避けられるようになったのは戦後になってからです。




参考文献
 講談社学術文庫シュリーマン旅行記ハインリッヒ・シュリーマン(著) / 石井和子(訳)
 平凡社「逝きし世の面影」渡辺京二(著)
 講談社学術文庫「江戸幕末滞在記」E・スエンソン(著) / 長島要一(訳)
 講談社学術文庫「絵で見る幕末日本」エメェ アンベール(著) / 茂森唯士(訳)
 河出書房新社「江戸の庶民の朝から晩まで」歴史の謎を探る会(編)
 講談社学術文庫「ビゴーが見た明治日本」清水勲(著)

添付画像
 日下部 金兵衛の写真 女性が入浴しているところ http://www.baxleystamps.com/litho/meiji/060305.shtml より

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